文字を持たなかった明治―吉太郎62  昭和19年頃

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていたが、二夫は高等小学校のみならず、上級の農芸学校へ進んだ。吉太郎は不服だったが、二夫が新しい技術を学んで来ることは頼もしくもあった。

 当初の対中国から対米英、蘭へと拡大された戦争の影響は、やがて小さな農村の暮らしにも及んできた。戦時国債を買った(買わされた)り、兵隊さんが逗留したりすることもあった。それでも、土地があるおかげでとりあえず食べるものには困らない暮らしが続いていた。

 昭和19(1944)年も後半になると、鹿児島にも「敵機」の襲来が見られるようになる。敵機は鹿児島市をはじめとする大きな街、そして軍用施設がある場所に飛来しては、飛び去った。この時期はまだ偵察というか、航空写真でそれぞれの目標の正確な位置データを取得するためのものだっただろう。

 一方で徴兵による出征はだんだん増え、以前ならば徴兵の対象にならなかった――兵隊として使い物にならないと判断されたであろう――人々も、出征していくようになった。このため、小作代わりに耕作を手伝ってくれる男手も減っていった。なにより、二男、三男といった自分の土地を持たない男子から順に召集されていたのだ。

 妻のハルは相変わらず働き者で、農作業の合間になにかしら作っては町のほうへ売りに行き小銭を稼ぐ、という生活も変わらなかったが、ハルがどんなに働き者でも、田畑の作業を倍、三倍こなすわけにはいかない。吉太郎は集落の女性たちに声をかけて、田畑の手伝いを頼むことが多くなった。こういうとき、子供が一人しかいないのは苦しいものだと内心悔しい思いもした。

 年齢上の規定により還暦を越えた吉太郎に令状が来ることはなかったし、一人息子の二夫はまだ10代後半、公立の実業学校の生徒でもあり、さすがに召集されないだろうと思われた。二夫が通うのは、実業学校の中でも国力をいちばん支えている農業の、後継者を育てるための学校なのだから。

 息子が農芸学校を卒業したら本格的に百姓仕事に打ち込んでくれる。一人しかいない男子を兵隊に取られることもないだろう。若い男とは言え、根こそぎ兵隊にとるわけでもないだろう。食糧生産は国の要だ。最新の農業技術を学んだ人材として、兵隊に取ることなく農業生産に振り向けてくれるはずだ。

 ――というような整然とした思考ではなかったかもしれないが、吉太郎は自分なりに国と農業、国とわが家の関係を考えていたことだろう。

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