番外――安倍元首相襲撃事件(2022年7月8日発生)
この件について日記代わりに書いておきたい。
まず、安倍晋三元首相の死去に対して深い哀悼の気持ちを述べる。
事件はリアルタイムで報道されているので詳細は書かない。捜査が進められている最中であり、山上徹也容疑者の動機や事件に至った背景などの解明も待たれる。
ここで書いておきたいのは、容疑者が単独犯と思われること、仕事を持ってはいたが(5月に退職している)職場でも近隣でも親しいつきあいのある人物が浮かんでこないこと、家族関係が全く見えないことが何を意味するか、だ。
ひと昔前は、いやもうふた昔以上も前になるかもしれないが、例えば立てこもり犯などに対して、母親などの肉親が現場に赴き涙ながらに説得するという場面があり、凶悪犯でも親心からの説得には心を開いて投降することがあった。この手法(?)はある時期から全く見聞されなくなったが、それはなぜだろう? 一般人を現場に立たせることのリスクや万一の場合の責任などが考慮されるようになったのだろうか。
親子であっても独立した個人であり、責任は本人が負うべき、という考えが主流となり、肉親などにコメントを求めることすら規制が働くようになった。たまに親のコメントが取れても「わたしの言うことは聞かないから」と述べるケースもある。
もちろん事件を起こしたこと自体は本人に責任があるし、連帯責任のように家族が白い目で見られること、まして社会的から排除されることはあってはならない。
わたしが言いたいのは、犯罪に対して、家族をはじめとする共同体に属しているという意識が持つある種の抑止力についてだ。
わたしたち(とざっくり言う)より上の世代は「人に迷惑をかけないように」と言われて育った。「誰も見てないようでも、お天道様が見ているよ」とも。人は一人で生きているのではないこと、目に見えなくても誰かと、そして世界とつながっていることを無意識に学んだと思う。犯罪はもちろん、ちょっとした不正であっても、「親に申し訳ない」「家族が、友達が悲しむ」「職場に迷惑がかかる」という気持ちがブレーキになった。
いま、さまざまな事件で逮捕された人たちが連行される映像を見ると――昼前のニュースに多いのだが――俯いて顔を隠すでもなく平然としていて驚かされる。「つかまってしまったが運が悪かっただけだ」という気持ちが透けて見える。この人たちの思考には、他者はもちろん家族に対しても申し訳ないとか、恥ずかしいという考えはないのだろう。
自由と責任あるいは義務は一体のはずなのに、戦後の日本では自由のみが強調され、いまや「自分」こそ最も価値があると考えているように思う。しかし、遠い遠い祖先からの繋がりと、共同体――家族であり、地域であり、ひいては国や世界――なくして個人は存在し得ない。そして、共同体は一定の秩序なくしては成り立たない。それを、先人は道徳という形で説いたのではないかと思う。
こんな考え方は「古い」と一蹴されるだろう。昭和だと言われればそれまでだ。それでも、わたしたちが大切なものを置き去りにし続けた結果、こんなに孤独で生きづらい世の中になった部分がある、とわたしは思う。