昭和――になかったマナー(愛犬のお散歩)
昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸に書いてきているが、たまに昭和の習慣やマナーについて触れている。たいていは「当時はこのようにしていた、それは他者への配慮、気遣いを優先するがゆえである、いまはそんな習慣は(ほとんど)なくなっしまったようだ」という嘆き節みたいなものだ。
一方で、昭和にはなかった、あっても少なかった、がいまは当然とされるマナーもある。
その代表例が愛犬のお散歩――のときおしっこに水をかけることだろう。
昭和の頃も愛犬のお散歩はもちろんあったが、鎖やリードをつけない、おしっこはともかく大きいほうを放置していく、などはマナーが悪いと見做されていた。当時、路地の塀や電柱に「犬は鎖をつけましょう」「犬の排泄物は始末しましょう」といった注意喚起がされていた。
農村にあったわが家も犬を飼っていた時期があるが、散歩のときの大小は、道端の草むらや籔の中で「させて」いた。地域全般犬のしつけに神経質ではなかったし、そもそも自然に分解されるのだから、犬を飼っているどの家でもそうやっていた。ただし、街のほうや、大きな市の住宅地でどうだったかは知らない。
その後、昭和の終わり、平成くらいからだろうか。都市部でも戸建ての家の犬小屋で中型犬を飼っていたのが、集合住宅(多くはマンション)の室内で小型犬を飼うのが主流となり――集合住宅でも飼えるようになったのは、需要が先か供給が先か――、鎖が「リード」という呼び方に変ってきた頃。
愛犬のお散歩のとき、大きい方を拾って持ち帰るのは当然として、小さいほうは水をかけて薄める(?)のがマナーとされるようになった。そのきっかけはよく知らない。匂いや、道路に面した塀や建造物、植栽などが汚れる、痛む、というのが理由だろうか。尿の成分に水をちょっとかけた程度で薄まるとも思えないが、ペットボトルなどに水を入れ、シャワータイプのヘッドをつけた飼い主さんが、愛犬のおしっこのあとに水をかけて回るのは、いまや当たり前になった。
だが、令和の御代でもそれを守れない人がいるようだ。
先日近所を散歩していたとき。ヨークシャーテリアみたいな犬を散歩させているご婦人がいた。マスク越しだが60代か。何気なく二人(一人と一匹)を眺めていたら、あるマンションの敷地の樹木の下で、ワンちゃんがおしっこをした。当然そこに水をかけていくだろうと思いきや、飼い主の女性はそのまま歩いていった。
えーー?! あり得ないでしょう? でも、たまたまかな。飼い主の女性はちらちらこちらを気にしているみたいだけど。
と思いながら二人を追い越したところで、たくさんある樹木のひとつに鵲が飛んできて停まった。その声と姿を愛でていたら、二人に追い越された。
と、わたしを追い越したその先で、ワンちゃんがまたおしっこ。暑さのせいか、ずいぶん色が濃い。ワンちゃんも暑いよね、と思いつつ飼い主の女性がどうするか見ていたら。
水をかけることなく前方に歩いていく。再び、わたしのほうをちらちら見ながら。
おいおい、それはないでしょう? 思わず熱中症対策で持ち歩いている水をそこにかけた。
二人よりわたしのほうが若干歩くのが速いようで、ほどなく二人を追い越した。わたしは言わずにおられなかった。
「(ワンちゃんを)飼う資格ないですね」
ペットを家族と思うのは個人の価値観。大事に思う気持ちは、子供への愛情と変らないのかもしれない。だったらなおさら、愛するペットが社会の中で温かく見守られるように、受け入れられるように、お父さんお母さんが気をつけてあげるべきではないの?
と、昭和にはなかった煩悶をするのだった。