文字を持たなかった昭和465 困難な時代(24)来客の手土産

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがりで、少しでも現金収入を得るべく、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだこと、高校生だった二三四(わたし)は、母親にいっそ離婚してしまえばと「提案」までしたことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 気づまりな生活の中、夫の二夫(つぎお。父)が外出している時間だけは、ミヨ子も二三四もひと息つけたし、来客で二夫の機嫌がいいときも似たような状況が生まれた。

 来客の「メリット」はほかにもあった。ひとつは、お客さんが手土産を持ってくる場合だ。つつましい、を通り越して切り詰めた生活を送るミヨ子たちが、ふだんの生活ではとうてい買えない、あるいはそもそも近所に売っていないような品をいただいたときは、とても昂揚感があった。

 もっとも、当時の――昭和のと言っていいかもしれない――マナーでは、お客さん本人がいる前で包みを開けるのは「はしたない」ことだった。いただいたその場で恭しく捧げ持ち、小さい箱なら仏壇へ、大きい箱なら床の間に置いて、ご先祖にまずお供えした。開けるのは、早くてもお客さんが帰ってからだ。

 ただし、この手のいただきものは後日のお中元やお歳暮での返礼とセットになりがちで、品物の良さや珍しさは別にして、いずれ自分たちの負担に跳ね返ってくる性質のものでもあった。

 手土産は日持ちするお菓子類が多かったが、まれに酒のあてやご飯のお供になるようなものもあった。お菓子だと思って仏壇にお供えしておき、開けてみたら小魚の佃煮、ということもあった。こういう場合
「仏様になまぐさ物をお供えしてしまったね」
「いいじゃないか、仏様もたまには魚を食べたいだろうよ」
といった会話が交わされ、束の間ほんわりした雰囲気が漂うのだった。


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