文字を持たなかった昭和 二百四十六(クリスマスの夕食)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちが親として過ごしたクリスマス。ツリープレゼント、そしてサンタクロースはどこから来るかについて書いた。

 肝心の(?)クリスマスディナーについても書いてくが、「ディナー」と呼べるようなしゃれたものではなく、ふだんとちょっと違う晩ご飯、というくらいだった。

 それが12月24日だったか、25日だったかははっきりしない。24日は2学期の終業式でもあったので、24日が多かったかもしれないが、農作業や買い物などの都合で準備ができなければ25日ということもあっただろう。

 数日前に組み立てて飾ってあるツリーを、晩ご飯の前に食卓――と言っても、囲炉裏(のちに掘りごたつ)の近くに子供たちが運んでくる。家族全員――舅の吉太郎、姑のハル、夫の二夫(つぎお)、二人の子供――の6人が揃うと、下の子の二三四(わたし)が、幼稚園で習ったクリスマスの歌を歌う。たいていはいちばん簡単な「ジングルベル」だ。明治生まれの舅と姑(祖父母)は、神妙な顔をして聴いている。そもそもクリスマスについて詳しく知らない。孫たちにつき合ってくれているだけなのだ。

 献立(メニューではない)は、白いご飯にみそ汁と至ってふつう。ただし、おかずだけが違った。みんな――おそらく一帯の農村ではほぼ全て――が「ごて」*と呼んでいた、鶏モモの丸焼きである。鶏肉の料理はふだんから作るものの、モモ肉を丸まる食べるなど習慣的にも経済的にも「あり得ない」ことだったが、日本全土にクリスマスの習慣が定着していくにつれ、クリスマスには鶏、それも焼いたモモ肉を食べるもの、という(日本風の)認識も広まり、小さな町の肉屋さんでも売られるようになっていたのだ。

 ミヨ子はモモの丸焼きなど作れないし、年1回の行事のためだけに覚える気もなかった。どのみち子供主体の特別な行事なのだから、「ごて」は買ってくればいいと思っていた。ただ、売っている店が限られるのは難点だった。集落の周辺には肉屋や総菜屋はなかったからだ。自転車で20分ほどかかる商業地区へ買いに行くか、二夫に頼んで買ってきてもらった。

 丸焼きと言っても、一人1本ではない。何本かを分けて食べた。冷めた「ごて」は分けづらく、値段と見た目の豪華さほどにはおいしいと思えなかったが、西洋の料理はこんなものかもしれない、とも思った。

 飲み物はとりたてて用意しなかった。ただ時節柄お歳暮で「赤玉ハニーワイン」をもらうことがあり、大人たちは小さなグラスで少しだけ飲むこともあった。もっとも、吉太郎と二夫は、ふだんどおりに焼酎で晩酌するほうを喜んだ。

 ある時期からは、子供用に「シャンパン」も用意した。12月頃になると近所の食品店「マッちゃんち」に、「シャンパン」と呼ばれる炭酸飲料が置かれるようになったのだ。サイダーに少し色がついた程度のもので、後に「シャンメリー」と言う商品であることを知った。

 晩ご飯の締めくくりは、もちろんケーキである。「年の市」で買ったケーキを、二夫が厳かに切り分けた。家族の人数プラス1以上に切らなければならない。「1」は仏様、つまりお仏壇に供える分である。7等分は難しいので8等分して、お仏壇のおさがりを含め、翌日二人の子供が2切れずつ食べることに落ち着いた。

 3学年、二つ違いの二人は、クリームのバラの部分をどっちが食べるかでよく言い争いになった。「バラをやるから大きいほうをもらう」と兄の和明が言えば、二三四は納得せざるを得なかった。

 「年の市」にも書いたとおり、当時、地方のケーキはバタークリームである。今考えればしつこかったし、ミヨ子自身「油みたい」と言うこともあったが、子供たちにとってはこのうえないごちそうだった。バタークリームで汚れた皿は洗いづらく、ミヨ子は洗いながら「ほんとうに油だ」と呟いた。もっともお皿についたクリームまで舐めて食べた子供たちの皿は、ネコが舐め上げたほどきれいだった。

*鹿児島弁:ごて=太もも。
用例:おはんはごてが太かなあ。(あなた、太ももが大きいですね)

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