文字を持たなかった昭和352 ハウスキュウリ(1)始まり
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。ミヨ子の生い立ちから結婚、嫁ぎ先で作っていたり新たに取り組んだりしたさまざまな作物と農作業を、だいたい時系列で追ってきた。合間に、四季折々の暮しぶりや家事なども挟みながら。
本項からは昭和50年代前半に始めた新たな事業、キュウリのハウス栽培、略してハウスキュウリについて書いていく。前項「351 キュウリ栽培へ」でハウスキュウリを回顧したときの二三四(わたし)の胸中に触れたように、この事業はけして明るい思い出ではないのだが。
ハウスキュウリの提案者は、たぶんというより間違いなく農協だ。これまでに書いた「新しい」事業、例えばミカンやスイカがそうであったように、国や県単位の大きな農業政策や営農方針があって、各地の農協はそれに合わせた「新しい」営農を模索し、意欲と能力のある農家を見定めて――おそらく最初は「モデルケース」として――取り組んでみないかと提案した。そしてうまくいきそうだと見做されれば、周囲の農家にも広まる、という流れだったはずだ。
ミヨ子たちの地域の農家は、そうやってミカンも、ポンカンも、スイカにも取り組んできた。夫の二夫(つぎお。父)は、戦中の高等農林学校出の若手で、高度経済成長期には時代の趨勢として周囲の農家がどんどん兼業に転向する中、少数派の専業農家のひとりとして農協の運営にも協力していたから、「新しい」事業を持ちかけられることは多かったはずだ。
二夫自身、農作業に限らずいろいろなことを工夫してみるのが好きで、新しい技術が習得できるとあれば乗り気になっただろう。
ただ、その時点――昭和52(1977)年だった――のさまざまな環境や条件が、新しい事業を始めるのに適していたかと言えば、必ずしもそうではなかった。むしろ適していなかったかもしれない。
ハウスキュウリについて綴っていくに当たり、次項では事業を始める頃のミヨ子たちの状況をまず振り返ることにする。