文字を持たなかった昭和 百八十八(稲刈りの機械化)
昭和30~40年代、母ミヨ子たちが勤しんだ稲刈りについて書いてきた(その一~五)。わたしが記憶している(一部は想像できる範囲の)手で刈っていた頃の光景である。
もちろん、ミヨ子の家でもその後稲刈機(コンバイン)を導入し、稲刈り風景も作業の準備や手順も大きく変わっていく。機械化以降の作業についてはいずれ書くかもしれないとして――書かないかもしれないが――、機械を買ったのは具体的にはいつだっただろうか。
家業に関する大きな買い物を含む経営方針は、すべて夫の二夫(つぎお)が決めていた。初めて稲刈機を導入したのは昭和40年代の後半だろうか。
初代の稲刈機は歩行式で、2列ぐらいを刈っていくものだった。手で刈って何束かを束ねるところまでを機械化したもので、機械にセットしておいた麻紐のようなロープが刈り取った稲束をまとめていくのだ。まとめた稲束はその場に「置いて」行く、というスタイルだった。
「置いて」いかれた稲束はそこに寝て(?)いるだけなので、稲刈機のあとを追って稲束を集め、稲架に架けていくという作業は、手で刈っていた頃と同じように人の手で行う必要があった。 子供の二三四(わたし)がいちばん手伝いをしていた頃の稲刈は、この歩行式コンバインの時代だったと思う。
中腰で延々と稲を刈っていく作業から解放された歩行式稲刈機でも十分画期的だったが、次世代の稲刈機は稲刈という作業を決定的に変えた。稲架が不要なばかりか、脱穀まですませてしまうからだ。
進歩した稲刈機――コンバインと呼ばれるようになった――は、稲を刈りながら茎から籾を外す、つまり脱穀までやってしまう。脱穀して集めた籾は、機械にセットしておいた袋に直接詰めていく。袋がいっぱいになる頃を見計らって機械を止め、口のファスナーを締めて、新しい袋をセットする――を繰り返すのだ。
脱穀したあとの藁は、さらに進化したコンバインの場合粉砕して田んぼに撒くタイプもあったが、藁を残しておくために、藁だけを束ねるタイプもあった。
と断定的に書いたが、コンバイン操作をするのは二夫一人だったし、この頃には間近で稲刈を見る機会は減っていったので、半分は想像である。印象に残っているのは、農機メーカーのロゴやキャラクターがプリントされたファスナーつきのコメ袋だ。コメ袋は、何枚かはサービスで提供されるのだろうがそれだけでは足りないはずで、それぞれの機械に合った仕様のコメ袋を別途購入しただろうから、機械だけ買えば作業が完結するものでもなかった。
そもそも機械を動かすには燃料がいる。メンテナンスも必要だ。メンテナンスしても半永久的に使えるわけではない。いずれ型が古くなり、部品もなくなり、どこかで買い替えなければならない。
二夫が歩行式から脱穀までできるコンバインに買い替えるまでの期間は、それほど長くなかった気がする。世の農作業の機械化が急激に進み変わっていったのだと思う。たしかコンバインは中古だった。たまたま親戚に農機具メーカー「ヤンマー」の代理店を営んでいる人がおり、そこから買ったのではなかったか。
中古と言ってもまとまったお金が必要だったはずだ。コメを作って売る――直接の売り先は農協だから国の買い上げ価格で、高くはなかったっだろう――だけでは、たいした収入にはならなかったはずだ。家計を含め、どうやりくりしていたのか。
父の二夫は善良で人当たりもよく、仕事は一生懸命だったが、noteの初めのほうで書いたように経営センス、ひらたくいうと金儲けの才にはあまり恵まれていなかったと思う。経営(お金)のことを考え始めると、世の中の工業化、効率化がもてはやされるのとは逆にわが家の経済状態が徐々に衰退していく歴史ともあいまって、ややもするとやりきれない気持ちになる。