文字を持たなかった昭和370 ハウスキュウリ(19)ヘチマほどもあるキュウリ

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げており、労働力としての当時の家族構成から、苗の植えつけ手入れ収穫の様子などについて述べた。そしてハウスキュウリ時代の最も残念な事態である収穫が間に合わなくなってきた状況を書きつつある(前々項前項)。

 これを振り返るのは二三四(わたし)にとってかなり厳しいことなのだが、ミヨ子の半生について書き始めた以上避けて通れない部分なので、もう少しがんばって書く。

 二夫(つぎお。父)とミヨ子は、日中キュウリを植えたビニールハウスに向かい、手入れと収穫にいそしむ。収穫したキュウリは夕方持ち帰り、夕飯後には二三四も加わって選別と箱詰めに取り組む。前日には小さかったキュウリが次の日にはもう「摘み頃」になっているから、キュウリに追い立てられているような日々だった。そしてキュウリ側のスピードが人間を凌駕しつつあったのを、前項までに書いた。

 キュウリは、遠慮がなかった。ある時期から、ほんとうにキュウリの生長においつかなくなる。日々運び込まれるキュウリは、適切なMサイズのものよりL、さらにはヘチマくらいに育ったお化けのようなキュウリが多くなった。そこまで大きくなっても摘むのが間に合わなかったのだろう、熟すというのか、皮が黄色くなっているものもしばしば見かけた。

 商品として箱詰めできるキュウリは減っていき、流通に回せないキュウリのほうが多くなった。ヘチマのようにずっしりと重いキュウリを、出荷用の箱ではなくプラスチックの運搬箱(キャリ)に仕分けするときの絶望感。

 二三四は、ヘチマのようになったキュウリを引き取るところがあるのか、とミヨ子に聞いたことがある。答えは
「漬物工場が買うらしい」
というものだった。それにしても、二束三文だろう。皮が色づいたキュウリとなればもっと買い叩かれることは想像に難くない。

 夜の選別作業は、大きくて重いキュウリが多いため、とても疲れるものだった。15、6歳の娘でさえ疲れるのだから、一日中暑いビニールハウスで働いたミヨ子たちには、もっと負担になっただろう。当時二人とも50歳を超え、農家としての働き盛りは過ぎつつあった。なにより、作物の生育と収穫をコントロールできていないという精神的疲労が、二人、とくに二夫を苛んでいたはずだ。

 それでも、キュウリは次々と実をつけ、大きくなる。今思えば、花の段階で数量をコントロールできていれば、つまり株や畝単位で適量になるよう摘花できていれば、あんな状態には陥らなかったのかもしれない。しかし、ある一部のオーバーキャパシティが生む負の循環は、ビニールハウス全体、そして家全体に及んでいた。

 家に運びこまれた大量のキュウリは縁側に置かれる。家族3人は、縁側の端っこにある玄関の灯りの中で毎晩選別作業を続けた。玄関の照明はあまり明るくなかった。コンクリートの三和土、薄暗い照明、ヘチマほどもあるたくさんのキュウリを、来る日も来る日も選別し続ける。思い出したくないのにいまもふとしたはずみに鮮明に甦る、重く苦い日々だった。

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