文字を持たなかった昭和 二百十一(藁その二、敷く・結ぶ)

 について続ける。

 農作業の機械化以前はもちろん、機械化後(五十(機械化))でも手作業がまったくなくなったわけではなかったから、藁の出番は多かった。

 いちばん簡単な使い方は保温だ。畑に種を撒いたり苗を植えたりした後、土壌の保温が必要な場合、畝の上に藁を被せた。いまは「マルチ」と呼ばれる黒いプラスチックシート(ポリウレタンやポリエチレン製らしい)を被せて、穴を開けたところに苗を植えたりするのが主流だと思うが、マルチを見るたび、エコじゃないなあと考えてしまう。

 おなじく、現在はやはりマルチを被せる土壌の乾燥防止も、藁が担っていた。マルチのようなシートだと中が蒸れる気がする。藁ならその点適度に放散してくれただろうと想像する。

 「結ぶ」「括る」「束ねる」といった作業でも活躍した。稲刈のときに刈った稲を小さく束ねるのは数本の藁、稲藁を太くまとめるときは、多めに束ねた藁の端をいったん結んで、それを半量ずつ逆方向に広げると長い紐のようになった。

 「結ぶ」「括る」といえば縄だが、縄も藁でできている。縄を「綯(な)う」のは男の仕事で、ミヨ子(母)の嫁ぎ先では主に舅の吉太郎が担っていた。縄を綯うのは農作業ができない夜や雨の日と決まっていて、夜なら囲炉裏端、昼間なら土間にでんと腰を下ろし、少しずつ藁を足しながら長い丈夫な縄を綯っていた。

 二夫(つぎお、父)も縄綯いはできたが、昭和45(1970)年の晩秋に吉太郎が亡くなる頃には、機械化も進みつつあり、何より農協が提供する農具には石化製品――プラスチックのカゴや、紐など――が増えていたから、縄を使う機会は相対的に減っていた。(ここにも、商業化と、生態系を考慮しない流れが見えるのだが、とりあえず「当時はすべての領域でそれが主流だった」と言っておく。)

 ミヨ子は縄綯いはできなかった。紐を組んだりとは違って、縄を綯うのはけっこうな力仕事だったから。ちょっと短い縄がほしいとき、納屋の藁でぱぱっと縄を綯ってくれる二夫は、ミヨ子にも子供たちにも頼もしく映った。

 わらじも、その名のとおり藁から作った。わらじは吉太郎の十八番で、家の者が履くわらじはすべて吉太郎の手作りだった。もっとも、子供たちが物心つく昭和40年頃にはわらじを履いている子供はおろか、大人でもいなかったから、柱に掛けた手作りのわらじは一種の工芸品のような、飾りのような存在だった。


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