最近のミヨ子さん 手持ち無沙汰
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。(前項「面会後」はこちら)
昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、わたしは鹿児島へと向かい、面会に赴いた。ミヨ子さんは一時より安定したものの点滴だけで命をつないでいる状態だ(面会①、面会②)。
「万一」も考えてそのための服なども用意し、勢い込んで帰ってきたわたしだったが、お見舞いに行ってしまうとあとはすることがほとんどない。ひと一人の生き死にに対して「待機」というのも憚られるし、ミヨ子さんの容態は安定している。とは言え低空飛行であり、いつ急変するかわからない。
それに「面会規定」に書いたとおり、病院の規則で、面会(訪問)者は次の面会まで1週間は間隔を空けなければならない。病院側は遠方からお見舞いに来たわたしに配慮し、1週間後でなくても戻る前にもう一度面会してもよいと言ってくれているが、わたしは自宅に戻る予定を決めてこなかったから、長めに滞在するとなると次の面会は早くて1週間後だ。その間何をすればいいのか。
わたしの滞在先はミヨ子さんの長男・カズアキさん(兄)宅だ。カズアキさんは自分の子供たちの進学が視野に入ったころ、郷里ではなく、鹿児島市の学区へも通えるこの土地に家を建てた(その後ここは町ごと鹿児島市に編入された)。郷里からは車で30分ほどで、ミヨ子さんはカズアキさん家族に引き取られる形で晩年の10年ほどをこの家で過ごした。
実家は撤去してもうないからわたしの「帰省」先もカズアキさん宅になる、ということはnoteでも何回か触れた。お嫁さん(義姉)はいい人で「気を使わないで自由にして」と言ってくれるが、そこはやはり「ひとの家」、実家で羽根を伸ばすのとは違う。
加えて数日前からの寒波である。丘陵地でお茶の産地でもあるこの一帯はもともと夜の冷え込みが厳しい。家の中はストーブをつけてあっても足元がひんやり寒く、ことにわたしにあてがわれた2階の部屋では息が白くなった。「自由に」するのも結局1階のリビングへ降りることになる。
そんな「帰省」の2日目。お嫁さんは外出する用事があるというので、留守番をことづかった。昼過ぎまでいないと言う。
前日ミヨ子さんのお見舞いに行ったわたしには、ひとつの考えが芽生えつつあった。それは、ミヨ子さんの所持品――多くは衣類だが――を整理しておこう、というものだ。第三者ならば「それって遺品整理では? いくらなんでも早すぎるんじゃない?」と思うかもしれない。
じっさい、これまでもお嫁さんから「お義母さんの物は、いずれ二三四ちゃん(わたし)が見て、ほしいものがあれば持って行ってね。もちろんその時が来たらあとで、だけど」と言われていたし、わたしも、それはミヨ子さんの存命中のことではないと固く思っていた。
しかし、「待機」状態であるこの時間を使って、実の娘であるわたしがミヨ子さんのものを見ておくのは、悪くないように思えた。そもそも――もう息をしているだけに近いミヨ子さんが、元気になって戻ってきて、置いてある衣類や道具を使う機会があるとは、とても思えなかった。
少し前なら「そんな、遺品整理みたいなこと、縁起でもない」とまず理屈で否定していたはずだが、ミヨ子さんの「現状」を見てわたしの考えに変化が生じていた。外出の準備をするお嫁さんに「お母さんの押し入れを見ておこうか」と告げると、「そうして」と同意された。(次は「持ち物整理(1)押入れ」)