昭和の習慣「お金を、包む」

 前回、ちょっとしたものを手近な紙などで包んで渡していた昭和の(?)習慣について書いた。

 書くきっかけになったのは、博多大吉さんの「おばあちゃんからティッシュに包んだお小遣いをもらったものだった」というエピソードなのだが、昭和の「包む」について書きたかった本論も、じつはお金に関係することにある。わたしも、大吉さんと同じような思い出を持ってるから。

 わたしは大吉さんよりひと回り近く上だし、育った環境もわたしのほうがいわゆる「田舎」だと思われるので、現実的にはふた回りぐらいのタイムラグがあると思っている。つまりわたしのほうがより「昭和」だろう、と。

 noteにずっと書き続けている母ミヨ子が、生まれ育ち結婚後も住み続けた鹿児島県西部の農村。わたしの子供時代の昭和40~50年代前半は、明治生まれのお年寄りもまだ健在で、戦前の、というよりさらに昔からの習慣、習わしがまだまだたくさん残っていた。

 お金は紙に包んで渡す、という習慣もそのひとつだったと思う。

 子供たちは、月ぎめのお小遣いをもらう習慣はなかった。と書けば「子供たちは自分のほしいものをどうやって買ったの?」と思われそうだが、お小遣いの話はひとまず置く。お年玉はもともと袋に入れており、最初は愛想もなにもないのし袋に始まり、やがて子供向けのポチ袋が出回るようになったから、「包む」ことにおいてお年玉も例外だ。

 紙に包んだのは、イレギュラーなお小遣いのほうだ。例えば、都会で働いている親戚が帰省して、お土産のほかに子供たちにお小遣いをくれるとき。近所のお宅で簡単なお手伝いをして、思いがけずお駄賃をもらったとき。硬貨ではなく、ちょっと多めのお金を子供に与えるときは、4つに折ったお札――昭和40年代前半、鹿児島ではまだ100円札が流通していた――を、きれいなチリ紙で包んで渡したものだった。

 たまに、奮発してか生活水準の違いからか、あとでそっと包みを開いてみると500円札が畳まれていることがあり、驚くと同時に、どこにしまおうか戸惑った。

 または。わたしの家の近所に、子供の足で3分もかからない場所に、病気がちのおばあさんとわたしの母より年上の娘さんが二人で暮らしているお宅があった。遊びに行く途中で立ち寄って、布団から半身を起こしたおばあさんに、幼稚園で覚えた歌を歌ったりお話を聞かせたりすることがあった。

 おばあさんは喜んで
「二三四ちゃんちょっと待ってて」
と枕元をごそごそと探り、チリ紙で包んだ紙幣を差し出した。もちろん、毎回ではなく、わたしもお小遣い目的で行っていたわけではないが。

 子供相手でなくても、お金を「包む」機会は、いまより多かったと思う。子供たちは見ていただけだったが、宴会や旅館の宿泊などで仲居さんに渡す「心づけ」は代表的な例だろう。この場合は、あらかじめ小ぶりののし袋に、「適切な」金額のお札を入れておき、責任者と思われる仲居さんに手渡すのだ。

 金額の基準は、おそらく場所の「格」や行為の目的、そしてお客側の懐事情により変動したと思う。のし袋が間に合わないときは、チリ紙に包んで「(ちゃんと包むのが)間に合わなかったもので」と断りながら渡した。

 わたしの家では滅多に――というよりほとんど――旅行したことはなく、とくに泊りがけの旅行は皆無だったが、大人たちが「心づけ」を用意することは知っていたし、テレビドラマでもそういうシーンはあったから、わたしもそういうものだと思って育った。

 だから、大人になって宴会や社内旅行の幹事を引き受けたときは、女中さんや仲居さんには心づけを用意した――そうそう、貸切バスの運転手さんにも。個人的な旅行でも、座敷でご飯を食べるような旅館では心づけを準備していった。たぶん平成の半ばくらいまでは。

 いまも、旅館やレストランで特別なリクエストをしたときは、心づけ、少なくとも手土産を用意する。ぽち袋に折ったお札を入れながら、「昭和のおばさんだなあ」と苦笑する。

 いま「心づけ」の習慣はどのくらい残っているのだろう。なんでもネットで手配ができ、支払いはクレジットカードや〇〇ペイですむようになって、現金でのやりとりは日を追って減っていく。お金の動き自体デジタルで表示される数字で見るだけで、いわゆる「現ナマ」を目にする機会も減った。いずれ、お金といえばすべからくスマホなどの液晶画面に並ぶ数字に、通貨のマークがついているものになるだろう。

 わざわざ紙に包むという手間をかけてから、気持ちの代わりにお金を差し出す――差し出していた習慣と文化。昭和を知る世代とともに消滅するんだろうか、とぼんやり考える。

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