文字を持たなかった昭和505 酷使してきた体(17)ねじれ腸、その後

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
 
 このところはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記している。前項では、夫の二夫(つぎお。父)が他界したあと一人暮らしをしていたミヨ子が、ねじれ腸と診断されたこと、医師の指示を守って食べるものを厳しく制限したことを述べた。娘として二三四(わたし)が、そんなに厳密に食事制限していては栄養失調になってしまうと心配したことも。

 じっさいその頃ミヨ子はやせ気味だった。もともと小太りというか全体にふっくらした体形で、150cmちょっとの身長に対し体重はずっと50kgを超えていたのに、この時期には50kgを下回るようになり
「年をとったのかねぇ、町(ちょう。自治体)の健診でも50kgに届かなかった」
と言うことがあった。

「お母さん、しっかり食べないからじゃないの? もっといろいろ食べたほうがいいよ」
帰省の折りや電話で、二三四はミヨ子に進言したが「またお腹が痛くなると困る」とやんわり返された。

 ねじれ腸のほうはそれほど心配するには及ばなかったようで、時間が経つにつれて腸の不調に関する話題は、母娘の間で聞かれなくなった。それでもミヨ子の「食事制限」は相変わらず続いていた。

 やがて長男のカズアキ(兄)家族との同居が始まった。お嫁さん(義姉)も最初は、キノコや海藻などの消化しにくい食材はミヨ子のお皿に入れないとか、ミヨ子の分は細かく切るといった気遣いをしていた。

 しかし、外食などの折りに見ていると、ミヨ子が食べ慣れていない料理――洋食や中華など――にキノコや海藻が入っていると、その正体を知らずに食べてしまうことに気づいたらしい。ミヨ子は都度「おいしい」という感想とともに平らげ、食べたあとはとくになにごともなかったという。

 そんなことが続くうちに、お嫁さんはミヨ子だけに特別なひと手間をかけることはほとんどしなくなった。ミヨ子が出て行ったため実家と呼べる場所がなくなり、帰省といえば兄の家に泊まるようになった二三四が、ふだん食べる料理にキノコや海藻が入っているのを見て
「お母さんは食べても大丈夫?」
とお嫁さんに尋ねたときは
「黙って出せば何でも食べるわよ。思い込みが強いから、最初に言ってしまうと『食べない』ってなるけどね」
と笑っていた。

 ただし、同居も数年を過ぎミヨ子の嚥下能力が心配になってからは、大きめの食材は小さく割って出すといった配慮はしてくれている。

 おかげさまで、と言えるだろう。兄家族との同居が始まり、それこそ何でも食べる(正確には食べさせられる)生活になってから、ミヨ子は血色が良くなりまた太ってきた。腰や膝の痛みや不具合を除けば、体調も前より良さそうだ。そうやって今に至っている。

 やっぱり、食べ物を口から入れて自分で飲み下すことは、生きる基本なのだろう。それが「おいしい」と感じられればなおのこといい。兄たちと同居するようになっていちばんよかったのはこの点だと、二三四はいつも感謝している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?