文字を持たなかった昭和 百三十八(七夕踊り、その三)
母ミヨ子のふるさとの伝統行事で、国の重要無形民族文化財にも指定されている「市来(いちき)の七夕踊り」は、今年(2022年)は今日8月7日が本番、そして伝統的形式としては最後の一日(年)になる。「その一」で概要を、「その二」で父二夫(つぎお)が七夕踊りにどう関わっていたか、ミヨ子ミヨ子はどうだったかを書いた。
祭り当日の今日は、一日の流れと、世話役だった頃の二夫の動きを書いておきたい。
なお、「市来の七夕踊り」を撮影した動画もネット上にいくつかアップロードされている。新型コロナで中断する直前の2019年に作成した動画『市来大里の七夕踊り-2019-』がコンパクトにまとまっているので、こちらを先に見ていただくと、全容がわかりやすいかもしれない。(ただしBGMはないほうがいいと感じる)
・朝の支度
関係者にとって祭りの朝は早い。諸々の準備の前に身支度も済ませておかなければならない。「庭割り」という世話役を担っていた二夫は、相応の衣装を着けた。
夏向きのサッカー地のシャツ(下着)とステテコの上に浴衣を着る。浴衣の裾は「からげて」(たくし上げて)*帯に挟む。腰には(たしか)狸の毛皮を下げ、帯には煙草入れとキセルを下げる。頭には「丸に十の字」、薩摩藩の紋が入った陣笠を被る。煙草入れとキセルは父親の吉太郎のもの、毛皮と陣笠は自前ではなかったが、毎年決まったお宅から借りてきていた。武士のいでたちを模した格好だった。
手伝いの人も含めすべての参加者とはそれぞれの担当に合わせた衣装を着ける。メインの太鼓踊りの踊り子は、揃いの衣装に大きな花笠を被った状態でほぼ一日過ごすことになるので大変だった。踊り子の衣装はある時期から保存会が揃いのものを準備して貸し出すシステムにするまでは、ある程度統一された基準の中で、それぞれが準備した衣装(浴衣)を着ていた。
踊り子以外でも、行列の中で踊りや踊りに近い動きを担当する「部落」〈108〉は、それぞれの衣装を着け所定の道具を持った。張り子の動物を担当する部落は、動物の動きをチェックしてから、動物を「担いで」会場まで動かした。動物の中に入ったり動かしたりする人は、上は白いシャツ、下は白いトレーニングパンツ、足元は踏ん張りやすい足袋が定番だった。動物使いの役もいて、こちらは違う衣装を着け小道具を持った。
・第一場「堀ノ内庭」
祭りの本番は、まだ涼しい8時頃「堀ノ内庭」と呼ばれるメイン会場から始まる。ここでは太鼓踊りだけが行われるが、「庭割り」などの世話役と大人の踊り子以外に、鉦叩きや「入れ太鼓」と呼ぶ小太鼓を叩く子供たちもここから加わる。彼らも正式な踊り子なのだ。
それぞれ大きな花笠を被っての踊りなので、家族や親戚などが後ろから団扇で風を送ってやる。これも一日中続く。時間が早いのと会場がさほど広くないため見物客はまだそれほど多くないが、すべての会場で唯一建物の中から見物できる場所があり、お年寄りなどはここでの見物を好む人もいた。
・第二場「鶴岡八幡宮」
「堀ノ内庭」での踊りが一通り終わると、次は「鶴岡八幡宮」での奉納である。「八幡どん(はっまんどん)」と呼ばれて親しまれている地元の氏神様で、「庭割り」や踊り子たちはもちろん、風送り役の家族たちや、踊りそのものが好きな通の人たちは、踊り子とともに20分ほども歩き、神社の急な石段を上って境内へ向かう。それぞれお参りしてから、そう広くない境内で再び太鼓踊りが一巡される。
・第三場「門前河原」
「八幡どん」での踊りが終わると、これまた徒歩で30分近く移動して、地元にとっての一級河川である大里川沿い、「門前河原」へ向かう。太鼓踊りの前踊りである各種行列や、動きの大きい動物の張り子はここで初めて登場する。行列の一部は、それぞれの部落からの移動の際に踊りを始める場合もあり、「門前河原」へ見物に行く道すがら「薙刀踊り」に遭遇することもあった。
「門前河原」では主に川の堤防を使って行列や動物の動きが披露される。虎狩りは、ときに堤防の斜面まで使って虎との攻防が展開され、この祭りの見どころのひとつでもある。行列と動物の動きが一通り終わると、最後は河原近くの広場で太鼓踊りが披露され、午前の祭りが終了する。
ちなみに「門前河原(もんぜんかわら)」を大人たちは縮めて「もんぜんぐら」と言っていた。郷里にいたころのわたしは「ぐら」が何なのかピンとこなかった。
・お昼どき
お昼、参加者はそれぞれの部落に戻り、部落の公民館に用意した昼食を取りながら焼酎を酌み交わす(今年は感染防止のため会食はないという)。太鼓踊りは踊り子を担うこと自体名誉なので、踊り子を出した家では、踊りの指導者や近隣の有力者などを招いてご馳走する。二夫は踊りの指導者でもあるので、お昼は「弟子」のお宅に招かれて過ごしていた。
昼食後のまだ日が高い時間帯はそのまま休憩に入るが、自宅まで戻って休む関係者はあまりおらず、公民館で少し昼寝したり、関係者どうしのおしゃべりに高じたりするうちに時間は過ぎた。
・第四場「中原(なかばる)」から「崎野広場」へ
3時くらいになると、次の会場である「中原(なかばる)」の田んぼに向かう。ここはその先の会場までの移動場所だが、行列や動物たちが田んぼのあぜ道を通りなが動きを披露する。
そのあとは「崎野」の広場に入る。ここは広くて遠目からも見やすく、屋台も出しやすいので見物客もいちばん多かったのではないだろうか。「中原」から続々到着した行列や動物は、ここでも順番に動きまわる。崎野広場は広さもさることながら、太鼓踊り以外の行列や動物たちにとっては最後の出番になるので、ここで大いに暴れる。
張り子の動物たちは祭り当日の「使い切り」で翌年に持ち越したりはしないから、虎狩りの狩人と虎の死闘が繰り広げられたり、年によって2頭出る牛どうしがぶつかりあったりして、ボロボロになるまで暴れるのが通例だった。もちろん観客は大いにわく。
そしてこの場でも、最後は太鼓踊りを踊って締める。その頃には南国の夏の太陽もかなり傾いている。
・再び「堀ノ内庭」へ
祭りのクライマックスと言っていい「崎野広場」での賑わいが退けたあと、太鼓踊りの一行は再び「堀ノ内庭」へ戻る。ここで、本当のクライマックスが待っているのだ。
踊り子たちは、暑い中着なれない衣装と大きな花笠に一日締め付けられて疲れた体から最後の気力を振り絞り、今日いちばんの踊りを舞う。ここに集う見物客も本来の踊り好きな通が多い。「一番どん(殿)」と呼ばれる花形の踊り子が左手で高く挙げた叩きながら舞い、今年の踊りを締めくくる。期せずしてその場にいる人たちから大きな拍手が送られる。
・上がり
祭りの行程がすべて終わると、昼と同様それぞれの部落に戻り「上がり(打ち上げ)」でお互いを慰労する。そのあと個別の慰労や挨拶で家々を回ったり、若手は後片付けしたりで、夜8時、9時くらいまでかかって長い一日が終わるのだった。もちろん、二夫はすべてが終わるまで帰ってこなかった。
※写真は本年の七夕踊りの朝、寺迫集落の皆さんの一部。花笠を被った踊り子のうち右側の人が、今年の「一番どん」。写真に向かって「一番どん」の右にいる男児が「鉦叩き」。中央の張り子は、この集落が隔年で担当してきた「牛」。他の踊り子は薙刀行列を踊るため、飾りをつけたレプリカの薙刀を携えている。
*鹿児島弁「からぐっ」(動詞)括る、(着物やズどボンの裾などを)たくしあげる。
〈108〉「その一」の備考(※1)で述べたように、「部落」は集落を指す。