文字を持たなかった昭和 帰省余話20~牛
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
ここしばらくは、そのミヨ子さんに会うべく先月帰省した折りのできごと――法要、郷里のホテルに1泊しての温泉入浴、なんでもおいしく食べる様子、カタカナはちゃんと読めている様子など――を「帰省余話」として書いてきた。そのときのエピソードを続ける。
帰省の前、ミヨ子さんの夫・二夫さん(つぎお。父)が亡くなった直後形見代わりにもらっておいたものを確認しておきたくなり、12年ぶりにその一部を取り出してみたら、思いがけず写真が4枚紛れ込んでいた。なんでもないスナップだが、実家を取り壊したときに写真はほぼすべて散逸してしまっているので、いまとなっては貴重である。それも話の種にしようと、帰省荷物に入れておいた。
長男の和明さん(兄)宅での留守番がてら、ミヨ子さんとお茶を飲んでいるとき、それらの写真を取り出した。
写真は、何かの寄り合いのときにミヨ子さんを含む女性数人を写したもの、同じ寄り合いなのか男性数人を写したもの――ただしその端っこに、ミヨ子さんの母(祖母)ハツノさんもいる――、地元の夏祭りでのちに国指定重要民俗文化財となった「七夕踊り」に、鉦(かね)の叩き手として参加した小学生の和明さん、そして、実家の納屋で飼っていた牛の4枚だった。七夕踊りの写真はモノクロ、それ以外はカラーだが、年月を経てかなり色が褪せている。
寄り合いの写真には、自分の母親が写り込んでいるにも拘わらず、ミヨ子さんはそれほど反応しなかった。七夕踊りの和明さんの晴れ姿も、モノクロなのに加えて、顔つきがだいぶ変わっているせいかちょっとわかりづらそうに見えた。
ただ、牛の写真だけは違った。牛についてのわたしの印象は、納屋の一角に囲いを作り飼い葉桶を置いて繋いでいたというもので、耕作に使っていたという記憶はなく、とりあえず育てておけばいずれ売れるという位置づけだったと理解していた。特別手をかけていたとも思えない。写真の中の牛も後ろ足からお尻にかけて糞をつけた姿で――糞を落とした藁の上に座るのでどうしてもこうなる――手入れされていない様子がありありだった。カラーでも色が褪せているのがむしろありがたいほどだ。
「うちの納屋にいた牛だね。おしりのあたりが汚れてるけど」
と写真を差し出すと、ミヨ子さんは急に語り出した。
「牛を川に連れて行って洗ってやるものだったけど、じいちゃん(舅である吉太郎さんのこと)は小柄だったから、牛を水に入れるのを怖がってねえ*」
初めて聞く話である。
「十一(生まれ在所)」に書いたように、実家があった集落には、小さいが流れが豊かな川があり用水路にもなっていた。おばあさんたちの洗濯場でもあったことは、わたしもぼんやり記憶している。いろいろな用途に使っていただろうから、農作業を終えた牛の体を洗ってやることもあっただろう。そして、たしかに吉太郎さんは小柄だった。年を取って腰が曲がってからはとくに小さく見えた。
わが家にはカメラはなかったから、牛の写真は、誰かが何かのついでに写してくれたものだろう。牛がカラー写真に収まったのは、昭和45(1970)年に92歳で亡くなった吉太郎さんが、現役で農作業をしていた頃のことではないはずだ。
ミヨ子さんが思い出した「牛とじいちゃん」はいつ頃のことかはわからない。牛を見て、自分たちが世話した情景でもなく、在りし日の舅を連想したそのメカニズムもよくわからない。ただ、ミヨ子さんの記憶の中では、牛と舅は分かちがたく結びついているのだろう。
*鹿児島弁「牛ゃ 川い連れて行たて 洗(ある)てやいもんじゃったどん、じさんな こまんからったで、牛ょ水(みじ)入るっとを おとろっせしおいやったでやねー。」
助詞の多くは、直前の名詞の音が被って短縮されている。また、舅(年長者)の話題なので、敬語を使っている。文中例:
「小さかった」→普通「こまんかった」、敬語「こまんかいやった」(短縮系)「こまんからった」
「こわがっていた」→普通「おとろっせしちょった」、敬語「おとろっせしちょいやった」「おとろっせしおいやった」
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