文字を持たなかった昭和457 困難な時代(16)「生理の貧困」を知って
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書きつつある。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があるうえ、農村ならではのつきあいから交際費はかかるため、家計は八方ふさがりだったこと、ツケで買い物することも多い中、娘の二三四(わたし)の学費もけっこうな負担になったことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。
前項では、そんな困窮の中でも高校生だった二三四が自分なりの将来への希望を見出しつつあったことを書いた。つまり、精神的には八方ふさがりというわけでもなかったということだ。
そこでは、これまで度々触れているような、ミヨ子の辛抱や心遣いも大きかった。いまになって特に感謝したいのは、ナプキンなどの生理用品で不自由な思いをせずにすんだことである。
と思うのは、いわゆる「生理の貧困」が社会問題として広く認知されつつあるからだ。生理の貧困とは、経済的な事情からナプキンなどの生理用品を必要量買えない家庭や個人の状態を指す、らしい。そんな状態が現代ニッポンに出現するなど、二三四の年代には想像できないことだった。戦後すぐならともかく高度成長期以降、どんなに困っていても生理用品に不自由する女性が多くいたと思えない。母親をはじめとする家族の女性も、そこで不自由をさせなかったはずだ。
二三四が思春期を迎えた昭和50年代、性に関する情報が増えてはいたものの、生理についてあからさまに口にしたりするのはまだ恥ずかしい、人によっては「はしたない」ことだった。小中学生なら初潮を迎えたこと、以降は生理中であることを同級生や友人に知られるのは、同性どうしでも憚られた。家庭によっては、母娘の間で割とフランクに話していたのかもしれないが、ミヨ子と二三四の間では、必要があれば話はするものの、あけすけに会話に出すことはなかった。とりわけ夫の二夫(つぎお。父)がいる場面で女性の体の現象について話すことは一切なかった。
二三四の場合、家で生理用品を使うときはポケットや服の下に隠してトイレに入った。幸いというかトイレは汲み取り式だったため、使ったあとはそのまま捨てればよかった。うっかり便器を汚してしまったら、こっそり水を汲んできてきれいになるまで流した。ちなみその頃ミヨ子は50代に入り、ナプキンを使うのはほとんど二三四だけになっていた。
そんな「家風」なので、家族に若い女性が多い家に行き、トイレの棚に開封したナプキンの袋がどんと置いてあるのを見た時、二三四は驚くというより「はしたない」と思った。ここの家では、娘の生理の状態を父親も知っているのかと。
かように生理に対しては封建的な(?)家庭ではあったが、二三四が初潮を迎えたとき、ミヨ子は自分のナプキン――ミヨ子は「パッド」と呼んでいた――を渡して使い方を教えてくれた。生理用にはショーツも特別なものがあると、買いに連れて行ってもくれた。ナプキンはトイレのすぐ側にある納戸の、ミヨ子が使うものが置いてある棚の中にあり、二三四はそこから必要なだけ持ち出せばよかった。「在庫」が減ればたいていミヨ子が買い足しておいてくれる。交換の頻度や、量が多い時の使い方――当時は「夜用」「長時間用」などなかった――なども、ミヨ子がそれとなく伝授してくれた。
性全般に関してオープンではなかったけれども、生理についてはきちんと意思疎通でき、使うものの心配をしなくてすみ、衛生的に生理期間を過ごせ、気になることがあれば相談できたのは、母親であるミヨ子のおかげだったと改めて思う。
いうまでもなく、生理用品は適切に交換し、局部の清潔を保たないと細菌感染などを招きやすい。不潔な生理用品をがまんして使い続ける、あるいは本来の用途でない素材(トイレットペーパーや布等)で代用するような生活が長期に亘れば、婦人科系の疾病につながりかねない。
女性としての基本的な生活条件が満たされていない人が一定数いる社会になってしまったことに、二三四は一種の落胆を感じている。先を歩いていたはずの自分たちがそんな社会を作ってしまったことへの自責の念も。いま困難な状況にある人びと、とくに女性が、二三四が貧しい中でも持てていたような希望を少しでも感じられますように。