母は精神疾患でした【詳細版】②|症状の経過に一喜一憂した小学校高学年時代
■小学校高学年~中学生時代について
幼稚園の頃から入院していた母親は、私が高学年にあがっても症状が安定することはなく、精神病棟への入退院を繰り返していました。
記憶に蓋をしているのか、ぼやっとしてしている部分もありますが、小学校高学年の出来事について書いてみようと思います。
■休日は見舞いが習慣に
私が小学校高学年にあがる頃、母は、精神病棟に入院していることがほとんどでした。
そのため母親が家にいた記憶はあまりありません。
土日になると、車で片道50分かけて母親の見舞いに行くのが習慣になっていました。
毎週、元気な母親に会えることを楽しみしていましたが、母親は元気になるどころか、どんどん悪化して別人の様になっていきました。
髪は乱れ、目はうつろになり、大きなクマができ、一切の表情が消え、暴食して激太りし、口数が少なくなり、ベッドでふさぎ込んでいるのが常でした。
そこに、元気だった頃の母親はいませんでした。
この頃は処方されていた精神薬の影響が大きかったのではないかと思います。
時間経過と共に薬が調整されたのか、元気な母親の姿に戻っていきましたが、それまでが本人にとっても家族にとっても地獄でした。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ある面会の日、母親の部屋に入ると、母親が薄暗い部屋のど真ん中にうつむいたまま仁王立ちしていました。
「このお母さんの状態はやばい。」私は直感でそう思いました。
いつもなら私達が部屋に入ると笑顔で出迎えてくれるからです。
母親は床をにらみつけたままこう言いました。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
「あなたたち誰ですか?」
「私はあなたたちなんて知りません」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
その場の空気が凍りつきました。
父親もびっくりして「あなたの夫と子供だよ」と語りかけました。
しかし、母親は突然
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
「誰か助けてぇぇえぇぇ!!!」
「来てぇぇぇぇえ!!」
「部屋に知らない3人組がいます!!!」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
まるで殺人鬼にでも追い詰められているかのような声で大絶叫し始めました。
私はその時「せっかく会いに来たのに、なんで?」「わすれちゃったの?」といろんな思いが頭をめぐって、気が付くとたくさん涙がこぼれていました。
豹変してしまった母親に対する本能的な恐怖もありました。
その後、父親が何度なだめても母親の態度は変わらず「今日は帰るね」と父親が言い残し、私たちもあとをついて帰りの車に乗り込みました。
すると遠くの方から
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
「行かないでぇぇえええ!!」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
と泣き叫ぶ声が聞こえました。
びっくりして声の方をみると、病室の窓の鉄格子の隙間から必死にこちらに手を伸ばし、大絶叫している母親の姿がありました。
私達はそれを見て、おそるおそる病室へ戻ろうとしましたが、ナースステーションの前で看護師さんに「ご本人が会いたくないと言ってます」と言われて、引き返すしかありませんでした。
その日の帰りの車での中では、病院での母の姿を思い出しては静かに泣き、「なんでこうなってしまったんだろう・・」と打ちひしがれていた記憶があります。
どうしようもありませんでした。
入院して最初の頃、母親はほとんどこんな感じでした。元気でいることの方がめずらしかったです。
泣きながら壁に頭を打ち付けたり、もっとひどい時は私が見舞いに来ている時に病室のトイレで頭に袋をかぶり、窒息死しようとすることもありました。
今でもトラウマようにこの出来事が思い出されることがあります。
そんな中でも母は時間経過と共に少しずつ、一緒に外を散歩できる日や、談笑できる日が増えていき、元気な母親の姿に徐々に戻っていきました。
そのうち外泊(一時退院)の許可も下りるようになり、母はついに退院することができました。
■症状の回復と再発
母親は退院後しばらく、誰もが「もう病気は治ったんだ」と思うほど、全快に近い状態でした。
『こんな生活が続けばいいな』と思っていたある日、父親の転勤が決まり遠方に引っ越すことになりました。
引っ越しの準備で慌ただしい毎日でしたが、母親の症状が出現することは全くなかったように思います。
無事に引っ越しを終えて小学校に編入し、友達もできて、新しい生活にも慣れてきた頃…母親に異変が起こりました。
引っ越し前のようにまた症状が表れるようになったのです。
その後、また入院していた気がします。
このへんの記憶はあまりありません‥(-_-;)
中学生になる頃には、母親が元気だった頃の姿を忘れるほど症状が悪化していました。
▼▼次の話▼▼