第5回宮崎本大賞、走り始めます:宮崎本大賞の深いところ
2023年7月、宮崎県の各地にて。例のごとく私たちはTeamsで集い「第4回宮崎本大賞」の締めくくりを語らった。
・・・本当は「全員揃って毎回のミーティングの様子をスクショにとって、noteに毎度投稿していきましょう!」と開会と同時に宣言したのだけれど、第1回目のミーティングから撮り忘れ・・・。
(この記事のトップ画像は、最後にドタバタと残った人だけで撮影された)
第5回宮崎本大賞は、そんなミスをしながらも楽しく始まった。
📚宮崎本大賞実行委員は、基本的に愉快な本好きなのだ
📖授賞式のこと
2023年3月8日(3.8=宮=みやの日)の発表、授賞式では宮崎本大賞4回の歴史にして初めての著者さんご来宮(らいぐう)を果たし、テレビ・ラジオ・新聞への露出も例年に比べて格段に増えた。
そして第4回では、版元である中央公論新社様のお力が大きかった。3月8日の朝、朝刊にでっかく掲出された『三千円の使いかた』の広告を見たときの晴れがましい、まるで入学式の早朝のような気持ちは今でも新鮮だ。
原田ひ香先生がご来宮された効果もあって、第4回は過去の宮崎本大賞キャンペーンを凌ぐ売上冊数を誇っている。つまりは過去最多の売上冊数だ。
作品・作家さんの魅力が、宮崎の本好きたちの手から手へと、心から心へとつなぎ渡され「好き」な気持ちの結集として次の本好きたちへと渡っていった結果だろう。私たちは「好きなページはありますか。」の合言葉を胸に、その問いかけを無邪気なまでに繰り返しながら、本好きたちの環をどんどん大きなものにしたいと考えている。
その環はきっと、宮崎県内という広いような狭いような世界に収まらなくたっていいはずだ。
📖ショートストーリー(note短編集)のこと
そして「好きなページはありますか。」という宮本大賞のタグラインをめぐっては、第4回宮崎本大賞のプロモーションの一環としてショートストーリーも紡がれた。
実行委員みんなでアイディアを出したストーリー展開を、委員の一人である小宮山剛(椎葉村図書館「ぶん文Bun」)が短編集のようなnote小説に書き上げたこちらの物語。全編で1,000近い「スキ」をいただいたことからも分かるように、まあまあの方々にお読みいただいた。「こりゃあ、宮崎本大賞の実行委員はほんとに本好きだね」と思っていただけたのであれば幸いである。
ショートストーリー企画のすべては「もし私たちが本当の本好きだったら、物語すら自分たちで書いてみたいよね」というような、無邪気なファースト・アイディアから端を発した。企画会議の中の、ふとした脱力と眠気と覚醒のあいだを抜け出てくるジャスト・アイディア。それに「やろうやろう」と肯定の意が寄り集まる様は、なんだか一つの時代が移り変わる日々のように愉快だった。
小宮山(note担当)が文章を書くといえば、実行委員の星野絵美さんがイラストを描くと言ってくれた。そして河野喬さん(TEMPAR)がそのイラストをディレクションするというかたちで、あれよと言う間にショートストーリーを内製するポジションが決定した。
私たち宮崎本大賞は、基本的に愉快な本好きなのだ。
📚単に販売冊数を増やすためだけではないポテンシャル
📖私たちのこれから
愉快な本好きの私たち、宮崎本大賞。
でも愉快なばかりではいられない。時はめぐり、人は移ろい、新しい季節がやってくるのだ。
第4回宮崎本大賞は売上冊数も過去最高だし、メディア露出も増えたし、新しい取り組みであるnoteもやりきったし・・・なんて書いてしまうとすべてが上手くいったみたいな物言いになっちゃうのだけれど、実際のところは改善点も多い。
第5回の実行委員長は大変だ。
第4回実行委員長の山下俊司さん(未来屋書店)は、大賞を盛り上げながらも私たちが今後解決していかなくてはならない課題をどんどんと積み上げていった。そのすべてが「そうだよなぁ、でも大変だよなぁ」と、ちょっと傍目から見ていたくなるような代物で、僕(小宮山剛・椎葉村図書館・宮本note担当)としては第5回宮崎本大賞もnoteの更新などの広報に徹するかたちでやり過ごしたいと思っていた。
📖第5回宮崎本大賞実行委員長
昔から、足は短いくせにいろんな「長」になってきた。
(清掃班長、遠足班長、生徒会長、ゼミ長・・・)
そしてこの度、第5回宮崎本大賞実行委員長を拝命することになった。僕としては今までの「長」のなかで、最も身が引き締まる思いがする「長」だ。
小宮山のプロフィールをご覧になって「おや」とお思いの方がいらっしゃるかもしれない。「書店の人じゃない」・・・と。
僕は何を隠そう公共図書館の職員である。そしてもちろん公共図書館の例にもれず、椎葉村図書館「ぶん文Bun」では本を売っていない。
(僕としてはここに「直接的には」という後置修飾をつけ加えたいのだけれど)
本を売っていない人間が、本を売る大賞の実行委員長を務めてもいいものだろうか?さて、どうしたものか・・・?
「どうしたものか」と一応のところ悩むふりをしてみたけれど、僕としてはもう答えを決めていた。第3回・第4回宮崎本大賞の実行委員として関与してくるなかで、常に僕は「宮崎本大賞の今後の姿」を思い描いてきた。それは時として実現不可能なほどに楽観的(「株式会社宮崎本大賞を立ち上げたらいいんじゃないか」とか(笑))で、時として必要以上に悲観的であった。
そしてその結果、僕の立場だからこそできる宮崎本大賞の方針づけとブランディングがあるはずだという結論に至っていた。僕はもともとが、ブランディング屋なのだ。
まるで山上の天気みたいに態度を変えながら宮崎本大賞を批判し、また褒めちぎってきた僕なのだけれど、間違いなく言えることは、宮崎本大賞という取り組みはひとつの事業として「単に販売冊数を増やすためだけではないポテンシャルを秘めている」ということである。
あぁ・・・この不必要に長くなってしまいそうなnoteの締めくくりとして、そのポテンシャルの青写真と今後私たちが繰り返し実行していくミッションについて、いくつかのステートメントとして提起させていただきたい。
📚「売る」のか「生む」のか、私たちは何をするのか
📖宮崎本大賞のこだわり
宮崎本大賞には、いくつかのこだわりがある。とくに大切な三つをあげると・・・。
メンバーを広く募ること(書店だけ、などの限定を設けない)
大賞作品に選出されるのは「文庫本」であること
いかなる売り上げに資する選考理由よりも「好き」な作品が優先されること
と、私たちの姿勢や方針がわかりそうな気がする「こだわり」が見えてくる。
1.メンバーを広く募ることについては、まさに僕自身がいい例だろう。書店で販売する本の大賞実行委員の中に図書館職員が入っているというのは珍しいのではないだろうか。ましてや、これから実行委員長を務めるというのであるから一風変わっている。
僕はこの立場を利用して、宮崎本大賞に「もっと大きなものを売れるんだ」という価値観というか存在感というか、大義を植え付けたいと考えている。つまりは「本の売上冊数だけが我々の狙うところではない」ということであり、それは恐らくはより広い・深い計画や施策とも歩みを同じくするはずだ。
※たとえば「宮崎県生涯読書活動推進計画」とかそういったもの・・・
だんだんとマニフェストじみた文章になってきたけれど、とりあえず今のところは「私たちは『売る』だけではなく『生む』のだ」という抽象度の高い物言いに留めておきたい。
・・・もしあと一言だけ付け加えるとするならば、私たちは一つの現象を生み出そうとしているのだ。
2.大賞作品に選出されるのは「文庫本」であることについては、もしかするとあまり気にされない点なのかもしれない。
でも考えてみるとおかしな点ではないだろうか。文庫本は安価だから、売り上げ金額でいうと低い。販売単価が低いのだ。せっかく宮崎本大賞というムーヴメントのなかで販売するのだから、分厚い単行本を販売したらいいんじゃないかと(実行委員に正式に加わる前は)思ったりもした。
また、単行本が文庫化されたケースだと「既に売り切ったよね」という感覚がある場合がある。
※もちろん第4回宮崎本大賞受賞作『三千円の使いかた』のように、文庫本すらもう売り切ったというくらい売れに売れていても、まだ売上冊数が伸びていくというケースもある。素晴らしい売れ行きだ。
文庫本という「売る」ことに反するかのようなこだわりにこそ、宮崎本大賞が単なる「売る」施策で終わるのか「生む」施策として継続されていくのかという分かれ道がある気がする。
文庫本にはいくつか特徴がある。小さい、軽い、愛しい、片手で持てる・・・などなど、そこには機能的な特徴もあれば情緒的な特徴もある。
ところで、京都にパン屋さんが多い理由は「職人さんが多い京都では、片手でサクッと食べられるパンが重宝された」というような話を聞いたことがある(『京都人の密かな愉しみ』より)。私たちが文庫本にこだわるのには、そうした利便性の面もあるだろう。カレーライスを食べながら片手で読むのに『独学大全』や『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は不便だから。そしてマーケティングの面でも「スマートフォンから手のひらを奪い返す」ためには、気軽さ手軽さの面でも文庫本がカギになるような気がする。
そうしたいろんな実利的な面を含めてなお、それらすべてを凌駕するほどにエモーショナルで決定的で欠かすことのできないほどに重要な理由が「文庫本へのこだわり」の中にある。ステートメントとして明示化されてこそいないのだけれど、宮崎本大賞実行委員のなかにはふつふつとたぎる文庫本へのこだわりがある。
第5回宮崎本大賞では、その点を明文化し皆様の前にスポットライトを当てた状態で提示したいと考えている。
3.いかなる売り上げに資する選考理由よりも「好き」な作品が優先されることについては、先に述べた「1」と「2」を総括するようなこだわりであると思う。
誰の意見(投票)であろうが平等な一票で、売り上げよりも「好き」な文庫本を優先し、好きな作品を宮崎の、日本の、世界の皆さまへおすすめすることを願っている。そんな賞こそが宮崎本大賞なのだ。
それは果たしてただの青写真に過ぎず、かつてジョン・レノンの歌に歌われたように「お前は夢をみているだけだよ」ということになるのだろうか。
もちろん私たちは「そんなことはない」と宣言するつもりだ。
第5回宮崎本大賞では、こうした「メンバーの多様性」「文庫本」「好きな作品」といった私たちのこだわりについて次々とステートメントを出し、ある種の定義と宣言を恐れないようなあり方を目指したい。
それはまさに、私たちがどうあるべきかという存在理由の再宣言であり、これからの本の世界にどうなってほしいかという「生むべき現象」の再提案である。
もしかするとそこには朝令暮改のような変遷が含まれるかもしれないけれど、観察と方向付けの繰り返しが生む新たな決定と実行の先々に、宮崎本大賞とは何かがより多くの方にとって明確になっている未来が紡がれるのであればそれでいいと考えている。
そして何より、既に私たちには揺らぐことのない大切な共通の思いがある。
📖好きなページはありますか。
「こだわり」の中でもひときわ輝く「好き」。私たち宮崎本大賞の原動力は、お金ではなく「好き」だ。
青臭いだろうか。でも、青臭くて何が悪い。青臭くなくて、新しいものが生み出せるわけがないのだから。
そして僕は、この「好き」を、もっともっと個人的な「好き」のことであると強調しても良い気がしている。
世間一般の「好き」を超えた、あなただけの「とっておき」。そんなレベルの「好き」を世界と共有できる仕組みとして、宮崎本大賞が存在できたら素敵じゃないだろうか。
いや、そうあるべきなのだと今の時点から強調したい。
※もちろんそのためには資金が必要で、大賞自体のマネタイズについてはここでは敢えて触れていない別課題として存在している。
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「好きなページはありますか。」と問うだけでは済まないくらいの、とっておき。そんな本好きの本髄を披露しあうための装置として、宮崎本大賞は稼働していきたい。
そのためのビジョンを私たち自身が磨き上げ、明文化し、いくつものステートメントとして世界と分かち合う。第5回宮崎本大賞はそうして自らの存在意義を明らかにし、築きながら、本好きの新たな境地を宮崎県内外で切り拓いていきたい。今年もまた、多くの「好き」が実りますように。
さあ、つぎのページを開くときがやってきた。