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不来方とユートピア

岩手県の盛岡という土地には、古い呼び名がある。

それを不来方(こずかた)という。

この地名には昔話のような由来がある。

昔あるところに羅刹(らせつ)という鬼があらわれ、悪逆の限りをつくすようになった。

人々は困り果て、神社の神様にお祈りしたところ、神様があらわれて羅刹を捕まえた。

そして、二度と来ないよう誓いをたてさせ、その証として岩に手形をつけさせた。

このことから「二度と(鬼が)来ない土地」ということで、不来方という地名になったとさ。

どんどはれ。

…という由来である。

ちなみに、ご存じの方もいらっしゃると思うが、比嘉愛未がヒロインで、2007年に放送されたNHK朝ドラ「どんど晴れ」は、盛岡を舞台にしている。

この不来方の由来の話が、なぜか好きなのである。

というのも、桃太郎とかの有名な昔話と比べても、話がなんだかほんわかしている気がするのだ。

鬼を退治するのではなく、追い出しただけなのである。

また、不来方という名前にも勇ましさがなく、あくまで神頼みで頼りなくはあるけど、平和的な感じがする。

これは岩手の土地柄をあらわしているような気がするのである。

住民同士助け合って生きていて、和を大事にして、誰でもいてよくて、排除などはしない。

こちらは現代の話なのだけど、会社の転勤などで盛岡に来た人は、盛岡が好きになって住み着くことが多いらしい。

長くなるので省略するが、気になる方は「二度泣き橋」で検索していただけると幸いである。

これにはいろいろ理由があるのだろうけど、少なくともよそ者に対して、排他的ではないということがあると思われる。

ただ、一方で問題点があるとすれば、羅刹のような鬼(=悪人)を排除する術を持っていないのだ。

したがって、鬼が来ないでと祈るしかない。

これは生々しい話なので、少しオブラートに包んだ話とするが、僕自身、岩手県の釜石市において、このような出来事を経験をしたことがある。

あるコミュニティに「変な人」が入ってきてしまったのだ。

僕の地元の生まれ育った鈴鹿の町だと、コミュニティに変な人が入ってくると、何人かがすぐに気づいて情報を仲間内に広める。

「あいつは変なやつだぞ」と。

すると、なんとなく仲間が距離を置くようになったりして、場合によってはちょっといじめのようなことも起こる。

いじめの良し悪しはともあれ、そんなプロセスで排除されていくものなのである。

変な人というのは、どういう人かというとコミュニティの和を乱したり、利益を損ねたり、害を及ぼしたりする人である。

いろいろなパターンがあるが、具体的にはウソをつく人や、ずるい人や、人の物やお金を奪ったりする人などである。

ところが、釜石ではこの排除機能が働かないようなのである。

まず、みんな人がいいのか、変な人センサーがついている人がいない。

さらに、実害を受けて気づいた人もいるのだけど、それを周りに伝えたり、怒って排除しようとしたりせず、ただ我慢するだけだったりする。

すると、情報が他に伝わっていかないので、気が付いて離れた人がいても、また別の人が被害を受けたりするのだ。

この人を見ていると、不来方の昔話に登場する羅刹とは、こういう人のことだったのではないかと思うようになった。

さて、ここでだいぶ話は変わるが、最近「ゼロからの資本論」という本を読んだ。

哲学者、斎藤幸平さんの著書である。

カール・マルクスの資本論をはじめとする著書や、彼の思考を紹介しつつ、現代の資本主義の問題を解きあかし、今後目指すべき社会の在り方をも提案している。

マルクス主義や、共産主義と言うと、なんとなく近寄りがたいというか、敬遠してしまう気持ちがある。

現代社会においては社会主義国のイメージは暗く、社会実験の失敗という風にも言われている。

戦争を起こしたり、ミサイルをたびたび本邦の上空に発射してくるのも、元あるいは現社会主義国である。

社会主義はマルクスが推奨した、共産主義の前段階の形態であり、それを革命によって実現したのがソビエト連邦だ。

そこからさらに、中国や北朝鮮など東アジア、東南アジア、南米、その他の旧東側諸国に広がることになった。

ところが宗主国ともいうべきソ連は実質崩壊し、その他の国々も、なんとか存続しつつも、経済的にはうまくいっていない。

そしてなんと言っても、救われるはずの労働者(プロレタリアート)が救われず、権力者による搾取が横行する社会となっている。

なので、マルクスが提唱したこと自体、間違いだったような気がするというのが、日本などの資本主義国家に暮らす人々のイメージだろう。

ところが、斎藤氏は本の中で、ソ連や中国がとっていたような一党独裁の国家体制は、マルクスの考える社会形態とは、そもそも違うという。

それらの国の体制は、土地や生産の手段(設備)を国が所有しているというだけで、貨幣経済体制であることには変わりがないからである。

資本主義においては、それらを資本家が所有し、労働者が働いて賃金をもらうが、社会主義国は、資本家が国家に変わっているだけだというのだ。

そして、労働者が賃金をもらって、それで必要な物資(商品)を買うという点においては、資本主義となんら変わらないため、それらは社会主義ではなく、国家資本主義というべきものだったのだ。

マルクスが問題にしているのは、労働者の労働によって得られた貨幣の一部を、資本家が「搾取」するということである。

ソ連をはじめとする社会主義国家では、資本家の代わりに国の権力者が搾取するので、マルクスの考える問題は解決されていないのだ。

マルクスが予見した社会の形は、なんでも商品ということにして、貨幣で取引するタイプの社会ではなく、社会の富を労働者が、資本家や国家を介さず、そのままわけあう社会であるらしい。

富と言うのはつまり、自然であり、人類の蓄積された知恵であり、労働でもある。

例えば、野に生える植物や、川を流れる水などは誰のものでもなく、みんなのものであり、人類の知恵すなわち教育や医療もみんなのもの、労働によって生産されるもの、つまりあらゆる商品、サービスも、みんなのものというわけである。

なるほど素晴らしい。

ではなぜ、このような社会(ユートピア)が実現しないのだろうか。

実はマルクスも何もないところから、このような考えを持ったわけではなく、ある程度、参考にしている実例があるそうだ。

それは、例えばゲルマン民族にみられる「マルク共同体」や、ロシアの「ミール共同体」をはじめとする、原古的な農業の共同体である。

そこでは土地が誰の所有物でもない、共有物として使われ、人々は平等に暮らしていたという。

誰かが権力を持ったりすることは制限され、富は平等に分配される。

そのため、資本主義社会のように発展を前提としておらず、一定の農作物を生産しつづける、定常的な社会なのである。

そのような暮らしが成立していたのだから、そのような社会は実現可能であると、マルクスは思ったのだろう。

では反対に(ここからは僕の考察になるが)、このような社会が、なぜ成立しなくなったのかと考えると、たとえば移動手段や情報伝達、テクノロジーの進化などが考えられる。

昔は閉じた世界で暮らしていたので、他にも集落があるかわからない。

外敵があらわれたりすることもないし、また他の地域を侵略するのも容易ではない。

さらに、そのようなことをするためのノウハウ(情報)がない。

それが、交易や武器の開発がすすんで、情報や戦略や武力などを手に入れた国(帝国)が、侵略してくるようになった。

人間の中には、必ず権力欲や支配欲を持った人がいるので、なんらかの防衛策を持たないことには、征服されてしまう。

それにはリーダーシップや戦略が必要になり、そのためにヒエラルキーが生まれてしまったりする。

またテクノロジーが進化しないような、定常的な社会だと、より発達した外部からの圧力に対抗できず、搾取されてしまったりする。

さらには外圧ばかりでなく、内部でも権力闘争のようなことが起こることもあるだろう。

もともと、そういう共同体には権力欲のある人がいなかったのかもしれないが、例えばよそから権力欲を持った人がやってきたらどうなるだろう?

この本では、そのようなことには言及されていない。


マルクスの資本論や、この本の内容は、僕の解釈が入ると間違っていることもあるので、ここまでにしておき、不来方の話に戻る。

僕はこれらの話を読んで、岩手や東北には、マルク共同体やミール共同体のようなコミュニティがあったのではないかと思うのである。

昔そこへ朝廷の軍が攻めてきたり、さらに江戸時代には幕府の統治などがあったりして、その時に地名も盛岡に変わったらしい。

そのような権力欲を持った、中央の人々が入り込む前は、平等で定常的で、仲間に力づくで言うことを聞かせたり、排除したりすることのない社会があった。

そう考えると、不来方の物語がよりリアルに感じられてくるのである。

そして、今も岩手にはそのようなコミュニティの性質が残っていて、一度住むと離れられなくなるのは、そのせいであり、原古への回帰のようなことなのではないだろうか。

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