詩的な罪
最近、岩手県民、とりわけ盛岡市民がSNSでさかんに投稿して、問題になっていることがある。
といっても、この問題は、たぶん他地域の人には理解が出来ないのではないだろうか。
それは、ある大手マンションデベロッパーが出した、折り込み広告についてである。
盛岡に新しくできるマンションの広告に、そのマンションの完成予想図が大きく掲載されており、その背景にあるのが、本来は岩手山であるはずなのに、なぜか青森の岩木山なのだ。
ごく端的にいうと、それが許せないという投稿であふれているのである。
他県民の僕からすると、その山が、岩手山なのか岩木山なのか、にわかには見分けがつかないし、自分と関係のない広告の背景があっていようと間違っていようと、どうでもいいことのように思ってしまう。
ちなみに僕が住んでいるのは、岩手県の釜石市であるが、釜石市と盛岡市は100㎞以上離れていて、盛岡市には2,3か月に一度行くか行かないかなので、あまり地元という感覚はない。
さらにいうと、完成予想図(パース)というのは、建主が建物を建てる前に、完成した時の「イメージ」を得るためのものであって、それほどの正確性は求められないという、建築業界の暗黙の前提もある。
「画像はイメージです。実際とは異なる可能性があります」という定型句がどこかに書いてあることも多い。
もしも富士山が背景に描かれていたら、さすがに虚偽の広告であり問題だと思うが、見分けのつかない岩手山と岩木山が入れ替わっていて、しかもそれが故意でなければ、それほど問題だとは感じない。
ところが、盛岡市民(以下、盛岡にシンパシーを感じる、岩手県民、岩手県民以外の人も全て、盛岡市民に含むものとする)の怒りは、想像以上であり、しかもみんなが同じように怒って当然という空気すらある。
それで、盛岡市がマンション会社に抗議文を送ったり、新聞各紙で取りざたされる事態ともなった。
地方新聞のみならず、全国紙やネットメディアまでも取り上げているのだ。
確かにデザイナーの大失態といってもいい、とんでもない間違いではある。
しかし、だからといって、これは何の罪で、何の害があるというのか?
マンションを購入する人からすると、窓から見える山の形が違うという問題がある。
しかし、盛岡市民の怒りはそういうところにはない。
なぜなら、この場合の、マンションを購入する人にとっての害とは、完成予想図よりも、実際の景観が劣ることである。
しかし盛岡市民は、むしろ、岩木山よりも、岩手山をよいものと思っているようである。
では、マンションを購入しない盛岡市民にとって、広告の与える害はなにかあるのだろうか。
すぐに思いつくような利害はなにもないし、法的にも道徳的にも、特に問題はないように思える。
彼らの主張は、たとえばこのようなものである。
盛岡市民の誇りである岩手山を、岩木山と間違えるなんて、地域に対してのリスペクトがない
石川啄木も愛した岩手山は、盛岡市民の心のよりどころであり、それを間違えるとは市民をバカにしている
地域に対するリスペクトとは何なのか、他地域の人間にはよくわからない。
そして、そもそもそれがないとダメなのか?
例えば、岩手に住む若者の中には、田舎が嫌いで都会へ出ていきたいと言ってはばからない人もいる。
釜石の高校生が、そのようなことを言うのを聞いて、ショックを受けたことは何度もある。
しかし、先生は注意しないし、そのままサラッと流される。
石川啄木が愛したかわからないが、それはともかくとして、広告を作った人は、別に岩手山や盛岡をバカにしたわけではないと思う。
なぜなら、企業イメージを大事にする民間企業が、あえてそんなことをするわけがないからだ。
折り込み広告というものは、書籍や新聞などと比べても、極めて一時的なものであるという特徴がある。
別にこのビジュアルが、10年、20年どこかに掲載され続けるという類のものではない。
マンションが完売すれば、必要はなくなり、泡のように消えてしまうだろう。
なんなら、SNSやメディアが取り上げなければ、ほとんどの人が目にすることもなかっただろう。
それは置くとしても、不思議なのは、このように合理性がないのに、多くの盛岡市民が疑いもなく苦言を呈して、互いに同調していることだ。
その結果、市が抗議文を送ったり、新聞によって指摘されたりして、最終的にマンション会社が謝罪することになった。
これは、見方によっては盛岡市民が、この間違いを「罪」として糾弾し、公的に罰が与えられたという構図になるであろう。
繰り返すが、一体何の罪なのか。
さて、ここで、実はこの問題を複雑にしていることには、前段があることをことわっておく。
これは、岩手や盛岡が好きで、この問題に対してもSNSで声を上げている妻に聞いたことである。
ついでにいうと、この問題を取り上げた全国紙とは、妻の前職の新聞社なのであった。
このマンションは歴史ある街並みが残る、紺屋町というところにあった、歴史的建造物の酒蔵を壊して建てられるのだ。
その段階から、市民の批判を浴びていたのである。
また、盛岡市民の岩手山好きというか、岩手山信仰というのは、計り知れないものがあって、高いビルを建てるだけで批判を浴びる土地柄である。
「岩手山が見えなくなるではないか!」と。
なので、二つの理由で批判をすでに浴びていたのだ。
その上に、この広告の間違いで、怒りが爆発したという構図でもあるのだ。
そこまで聞けば、なんとなく気持ちはわからないでもないが、あくまで広告の間違い一点のみについては、道理が通ってないところが、ちょっと気持ちが悪い。
なんとなく、罪のないものに罰を与えている感じがしてしまうのである。
例えば、なんらかの罪を犯した人がいたとして、その人がなにか他の人の気に障ることをしただけで、全て罪になるということはない。
派手な服を着ていて、目障りだったとしても、それ自体は罪ではない。
罪人のくせに目立ちやがって!と思ったとしても、大っぴらに口に出すのは正しいことではない。
罪を憎んで人を憎まず、それぞれの行為を、個別に判断するのが、現代の法秩序というものである。
一方で、定量的に判断したり、万人が道徳的に同じように思うことはないが、ある一定の集団内で共通の善悪の感覚というものがある。
言い換えると、合理的、理系的な判断ではなく、情緒的、感情的な評価、または文系的な判断である。
例えば、詩を読んで美しいと思う人もいれば、理解できない人もいる(僕は後者である)。
詩には定量的な評価の基準というものがない。
しかし、詩を愛好する人たちにとっては、明確に良し悪しの境界や、評価基準というものが共有されている。
例えば、詩の愛好者たちが、複数の詩に、それぞれが順位をつければ、おおよそ同じような結果になるだろう。
このような判断基準や価値観に照らし合わせると、今回の岩手山と岩木山の間違いの罪深さが見えてくるのかもしれない。
してみると、石川啄木が引き合いに出されたことも、理解できるような気がする。
岩手は文学者や、歌人などを多く輩出した土地である。
その中心こそ、盛岡である。
今回のことには、言わば詩的な罪であったのではないだろうか。
であるならば、詩心のない僕に理解できないのもわかる。
もし、このような評価軸で物事を判断する社会になると、例えば景観保護や、文化遺産、自然遺産の保護は、よりしやすくなるだろう。
現段階でも例えば都市計画において、景観保護法というものがあるが、景観を守るために、屋根や外壁の色のマンセル記号の数値の範囲を決めるといった評価軸は、およそ詩的とはいいがたい。
実質的な効果があるのか疑問である。
とはいえ、法を制定するためには、数値化するなどして、定量判断をするしかないから、このようなことにせざるを得ないのだ。
そう考えると、現代の法制度や社会のルールも、当たり前だが、まだまだ完全ではないものなのだと思う。
詩的な評価軸を、もっと上位にすえて、まちづくりや国づくりをしていけば、今よりも魅力的な街なみが出来て、国の価値が高まり、観光産業などもより発展するかもしれない。
盛岡がニューヨークタイムスの「2023年に行くべき52か所」に選ばれたのも、詩的な価値観によるまちづくりや、まちの保存の成果なのかもしれない。