アフガニスタン -かつては女子大生も多く、宗派対立もなかった
昨年9月30日に、カブールの学習塾で自爆テロが発生し、53人が死亡し、負傷者は110人に及んだ。このテロはISによるものだった。ISはこの学習塾がシーア派の、民族的にはハザラ人の子女が多く通うという理由でテロの標的にした可能性が高い。ハザラ人にはシーア派教徒が多いが、ISにはシーア派を異端視する傾向があり、アフガニスタンではシーア派はISだけでなく、1990年代の内戦時代、厳格なスンニ派の武装集団の攻撃対象にもなっていた。
学習塾は主に女子生徒が通学していたが、それはタリバンが日本の中学校、高校にあたる中等教育で女子が学ぶ環境が整っていないという理由で、女子生徒の通学を停止させたからだ。個人が開く塾や大学では女子の通学が可能だった。そのために、大学を目指す女子生徒たちは学習塾に通っていた。イスラムの主流の考えでは女子教育を禁じていない。イスラムのハディース(預言者ムハンマドの言行を記録したもの)には「男子であれ、女子であれ、すべてのムスリムには知識を探求する義務がある」という教えがある。
シーア派とスンニ派の相違は、誰がイスラム共同体の最高指導者であるかについての解釈の相違だ。預言者ムハンマドの血筋にある者が最高指導者(シーア派では「イマーム」という)でなければならないと考えるのがシーア派で、それ以外はスンニ派ということになる。つまり王朝的な考え方をするのがシーア派、そうでないのがスンニ派で、教義の上ではほとんど相違はない。
アフガニスタンが1919年にイギリスから独立を回復すると、アマヌッラー国王(在位1919~1929年)は世俗的な教育改革を推進し、女子教育の拡大に道を開いた。特にザーヒル・シャー(在位1933~1973年)の40年間の統治時代に女子の教育機会は拡大し、1970年代になると、カブール大学の学生総数1万人の6割が女子学生となった。さらに、1979年に始まったソ連の占領時代に女性の社会的進出は進み、アフガニスタンの大学では女性も教職に就くほどになった。
アフガニスタンで女子教育を否定するような傾向が生まれるのは1980年代にソ連軍に抵抗したムジャヒディンたちがパキスタンやイラン、サウジアラビアなど周辺のイスラム諸国の保守的なイスラムの解釈の影響を受けてからだ。イランでは1979年にイスラム革命が発生し、アフガニスタン国内のシーア派ムジャヒディンを支援するようになり、パキスタンでは1980年代、ハク大統領がイスラム化政策を追求していた。アラブ義勇兵をアフガニスタンに送ったサウジアラビアはイスラムの厳格なワッハーブ派を奉じる国で、女性の社会的役割が極めて制限されている。1992年に共産党政権が崩壊すると、元ムジャヒディンの軍閥たちは女性の役割を限定していき、1996年に始まるタリバン時代になると、女子教育はいっそう制限され、女子のわずか3%が基本的教育を受けるという有様だった。
同様に宗派対立もアフガニスタンではほとんど存在しなかったが、1980年代のソ連との戦争時代にパキスタンやサウジアラビアがスンニ派を、またイランがシーア派を支援するようになると、宗派的対立も次第に現れるようになった。
こうして見ると、アフガニスタンで女子の教育機会の拡大を図るとともに女子への暴力を減らし、宗派対立をなくすには国内の政治的安定や平和がいかに前提となるかがわかる。アフガニスタンが1960年代や70年代前半にあったような安定を取り戻すのはまったく容易ではないが、平和の前提となる民生の安定を徐々に取り戻していくしか方策はないだろう。対テロ戦争を開始し、軍隊を全面撤退させようとしている米国の責任が重大なのは言うまでもない。
アイキャッチ画像はアフガニスタンの女子大生たち
1970年代中期
https://www.reddit.com/r/OldSchoolCool/comments/4jqt9a/female_students_at_the_polytechnical_university/