キッシンジャーに逆らいパレスチナの独立を認めた日本の政治家たち
アメリカのキッシンジャー元国務長官が29日、亡くなった。1979年の米中の国交正常化やベトナム戦争のパリ和平協定成立に尽力し、73年にノーベル平和賞を受賞するなどアメリカ外交に重要な役割を果たしたという紹介が多い。
しかし、キッシンジャーは人権を無視するアメリカ外交の負の部分も担っていた。キッシンジャーは1969年ニクソン政権のカンボジア爆撃を計画、73年2月~8月の半年間に米国がカンボジアに投下した爆弾は25万トンに達した。「この量は、第二次大戦で日本に投下された爆弾の1.5倍にあたり、被爆地区を石器時代に逆戻りさせたといわれた。」(冨山泰『カンボジア戦記』1992年、中公新書、26頁)1971年の第三次印パ紛争では軍人独裁者のヤヒア・カーン大統領のパキスタンを支援、バングラデシュ独立に至るこの戦争では300万人が虐殺されたとも見られている。ラテンアメリカではチリのアジェンデ政権転覆のクーデターを画策した。アジェンデ政権崩壊後に成立したピノチェト政権は独裁的な手法で人権を侵害し、悪名高かった。
世界的人気シェフだったアンソニー・ボーディンは、「一度カンボジアに行ったら、ヘンリー・キッシンジャーを素手で殴り殺したいという思いが止まらなくなる。キッシンジャーがカンボジアでやったこと、つまり政治家としての彼の天才の成果を目の当たりにすれば、なぜ彼がハーグの被告席でミロシェビッチの隣に座っていないのか決して理解できないだろう。ミロシェビッチは2006年に獄中で死亡し、戦争犯罪の裁判にかけられた。」と語ったことがある。
ニクソンとキッシンジャーは1974年には20億ドルの援助をイスラエルに対して行う。このイスラエルへの資金援助の多くが、兵器の購入に使われるために、アメリカの軍需産業はアメリカ・イスラエルの同盟関係に重大な関心を寄せるようになった。キッシンジャーはとんでもない人物のように見えるが、日本ではこの人物が「外交の大家」として持ち上げられ、高額な講演料が支払われていた。
キッシンジャーの意向を拒絶し、パレスチナ人に民族自決権(独立)を認めたのは田中角栄首相だった。田中角栄首相は、1973年の第四中東戦争による石油危機の際にイスラエルは1967年の第三次中東戦争において占領した地域からの撤退を実現すべきである、日本政府はパレスチナ住民の合法的な権利を認め、その尊重を行うなどの声明をその年の11月に出した。石油の確保が目的だったとはいえ、パレスチナの民族自決権に明確に言及した政治家だった。
1973年11月に来日したキッシンジャー長官は田中角栄首相に親イスラエルの立場をとるように促したが、田中首相が「日本は中東の石油に依存している。かりに中東からの石油供給が止まればアメリカが代わりに日本に輸出してくれるのか」と切り返したら、キッシンジャー国務長官は無言だった。
日本に日本パレスチナ友好議員連盟があり、宇都宮徳馬、木村俊夫、伊東正義などの気骨ある政治家たちがその会長であった1970年代から80年代までパレスチナの民族自決権を認める立場をとっていた。1980年10月31日に伊東正義外相は、「安全保障及び沖縄・北方問題に関する特別委員会」で「米国を訪問した際に中東和平の基本はパレスチナ問題であり、それはパレスチナ人の国家までつくる権利も認め、そしてイスラエルがPLO(パレスチナ解放機構)も認めることだと主張しました。」と語っている。
日本がパレスチナの民族自決権を認める姿勢はキッシンジャーにとっては不快だったに違いない。ロッキード事件による田中角栄逮捕の背景にはキッシンジャーの策動があったことは広く知られるようになっている。キッシンジャーは角栄政権による中東政策とともに、アメリカに先駆けて行った日中国交正常化などの姿勢が気に入らなかった。(春名幹男「田中角栄はアメリカにハメられた…今明かされる『ロッキード事件』の真相」など)
俳優の菅原文太は中村哲医師のことを「弱きを助けて強きをくじく『侠気(きょうき)』の人」と敬意を払っていた。日本人の義侠心はイスラームの人々から評価されてきた。黒澤明監督の「七人の侍」は映画の製作が盛んなイランでも人気がある。イラン・サッカーの伝説的な名選手だったアリ・ダエイ選手は、「七人の侍」をとても気に入っていて、それは「弱きを助け、強きをくじく」ストーリーに魅かれるからだと語っていた。いま、キッシンジャーのような人物に盾突き、パレスチナの民族自決権を公に口にしたり、イスラエルに即時停戦を求めたりすることができる侠気をもっている政治家がどれほどいるだろうか。