聖地エルサレムは歴史の真実を伝える
佐藤真監督の映画「エドワード・サイード OUT OF PLACE」(2005年)は、パレスチナ系米国人の文学者エドワード・サイードが2003年に他界した後、その墓が彼の生誕の地であるエルサレムではなく、レバノンに建てられたというエピソードから展開していく。イスラエルの建国によって故地を逐われたパレスチナ人と、ヨーロッパなどで迫害を受けてイスラエルに移住したユダヤ人たちの、迫害と加害が交錯する世界を描き、パレスチナ・イスラエル双方の人々の証言によって、サイードが追い求めた両者の和解と共生の可能性を探っている。映画は、サイードとともに、パレスチナ和平実現の理想をもち続けたダニエル・バレンボイムのサイード追悼公演のピアノ演奏で締めくくられる。
エルサレムはカナーン人によって6、500年前から5、500年前に、「ダル・シャレム」という名前で造営された街で、それはユダヤ教が成立するずっと以前のことだった。紀元前2000年に、エルサレムはエジプト文書にも登場している。
ユダヤ人の先祖(族長)は、紀元前15世紀頃、メソポタミアからカナーンの地にやって来て、その一部はエジプトに至ったが、弾圧を受けると、モーゼに率いられて「出エジプト」を敢行して、カナーンに戻った。
古代ユダ王国(前922~前587年)は、ソロモンの子レハベアムを王として、エルサレムを首都として成立した。この王国は新バビロニアによって滅ぼされ、住民たちはバビロンに捕囚の身となった。紀元前539年に新バビロニアはペルシアのアケメネス朝によって滅ぼされ、アケメネス朝はエルサレムをはじめとするパレスチナをおよそ200年間、アレクサンダー大王の大遠征まで支配した。アレクサンダー大王の武将によって創られたプトレマイオス朝は紀元前198年にセレウコス朝がそこを征服するまでエルサレムを支配した。紀元前168年に小規模なユダヤ人国家がパレスチナに成立したが、西暦6年にエルサレムはローマ支配の下に置かれる。エルサレムは614年までローマ・ビザンツ支配にあったが、イランのサーサーン朝が支配した後、629年にビザンツが奪還した。638年から十字軍による征服があった1099年までエルサレムはイスラム帝国の下に置かれたが、ムスリムのサラーフ・アッディーン(サラディン)が1187年にエルサレムを奪還し、ユダヤ人のエルサレム帰還を認めてからイスラム支配は第一次世界大戦が終結する1918年まで続いた。
このように長い歴史を俯瞰すれば、ユダヤ人がエルサレムを支配した期間はアラブ・イスラムに比べるときわめて短い。イスラエルは狭量なナショナリズムを排して、サイードやバレンボイムが唱えた共存や和平を求めていくべきではないか。それがイスラエルの安全をも高めることにもあると思うだが、排他的なナショナリズムに訴えることがいかに危険かは第二次世界大戦中にユダヤ人が体験したナチズムの歴史も教えるところであり、日本もそれによって70年前の破綻を招いたことを忘れてはならないだろう。
アイキャッチ画像はエルサレム
岩のドーム
https://www.newsweek.com/ancient-street-pontius-pilate-jerusalem-1466634?fbclid=IwAR2XJM4GBcnRI9jeHsDbbMnENtRfIXVVp_rU_AW327RNcFaN96nG8sp5KjU