イスラエルに植民地化されるパレスチナに、日本の植民地主義の過去と重ね合わせた「李香蘭」
演出家の浅利慶太さんは、ミュージカル「李香蘭」(1991年初演)は何度でもいつでも上演したい作品だと語っていた。戦争に翻弄された李香蘭(山口淑子さん)を通じて、戦争の実相を子供たちに伝えたい、悲劇が繰り返され昭和という時代を風化させてはならないという想いが、「李香蘭」上演の背景にあった。
山口淑子さんは中国人歌手「李香蘭」としてデビューして、美貌と歌唱力で満州国と日本のスターとなったが、日本軍に協力したことで終戦後中国への反逆罪に問われたが、日本国籍であることが証明されて国外追放となった。
山口さんは北京の女学生だった時、抗日集会にも参加したことがあり、日本軍が攻めてきたら北京の城壁の上に立ちますとも話したことがあった。「日本の軍人は当時本当に威張っていました」「私が仮に中国人だったとして、同じことをされれば、日本を嫌いになっていたでしょう」と語っていた。(「李香蘭が語るアジア」より)
パレスチナ・イスラエルに行くと、イスラエル兵の振る舞いに同様なものを感じてしまう。軍事的に有利なイスラエル兵はパレスチナ人に対して実に横柄にふるまう。イスラエル軍兵士たちやイスラエルの極右勢力はヨルダン川西岸の土地や畑を奪う際にもほとんどまったく罪悪感なしに行っている様子だ。満州国建設も「王道楽土、五族協和」の美名の下に武力を背景に中国人の土地を接収する過程だった。
山口さんは1973年夏にイスラエルのエル・アル航空のハイジャックに失敗してイギリスで身柄を拘束されていたパレスチナ人コマンドのライラ・カリドにインタビューした。ライラが「私たちはユダヤ人を憎んでいるわけではない。力ずくで私たちの国を奪おうとする行為に反対しているのです」語ると、ハイジャックは非道な行為であるとは思いつつ、ライラの「イスラエルに奪われた故郷の上を飛びたかった」という言葉が、山口さんには日本人が中国東北部に「満州国」を建国した過去にダブって響いたという。
山口さんは、テレビ朝日の「徹子の部屋」の中で
「私ね、二つの国の狭間で翻弄されたけれど、戦争がいけないのよ。戦争はやってはいけないのよ。戦争は勝っても負けても悲惨です。戦争は嫌い!」。
と語っていた。
中東戦争の取材についても「私は、自分の心の傷をいやすために、わざわざ戦場に来ているのではない。その傷をもうこれ以上増やさないために、もう、あの中国大陸の戦場から逃げ出した時の傷を、新しく生まれた戦場の上に傷跡として残したくないために来ているのだ。」と中国での体験と重ね合わせて語った。(『誰も書かなかったアラブ』1974年)
『誰も書かなかったアラブ』の中には
「四次にわたる『中東戦争』の中で、『パレスチナをめぐる問題』が何か一つでも解決されたことがあっただろうか。
イスラエル軍は国連決議を無視して『占領』を続けるし、アラブ・ゲリラは、その報復と『奪還』をめざして一層過激な行動に出ている。
ときたまもたらされる大国間の申し合わせによる『中東和平』は、その戦いのたまさかの休みであり、真の『解決』にはいつも至らない。」
山口さんが『誰も書かなかったアラブ』を書いた頃とパレスチナ人の現状には大きな変化が見られないように見える。
山口さんは、イスラエル・パレスチナ二国家共存、つまりパレスチナ人が国家をもつことを支援して日本パレスチナ友好議員連盟の設立に参加した。山口さんがパレスチナ人に同時や共感を寄せたのは、日本人が中国人に行ったことに慚愧に堪えない想いからだったのかもしれない。