ビッグモーターの店舗の前に緑がない ―化学兵器略史
中古車販売会社「ビッグモーター」の全国18都道府県37店舗の前の街路樹や植え込みが伐採されたり、枯れたりしていることが28日までに確認された。除草剤を撒いたとしても樹木までも枯れるというのは相当強力なものが使用されたのではないかと思わざるをえない。
除草剤と言えば、ベトナム戦争の時に米軍が大量に枯れ葉剤を使用したことが思い出される。ベトナム戦争で1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成されるなど、米軍、南ベトナム軍が苦戦する中で、空軍基地の周囲を覆い、解放勢力の拠点、戦闘員や物資の輸送ルートになっているジャングルの存在は戦争遂行上、大きな障害となっていた。1961年11月、ケネディ大統領はベトナムへの軍事支援の増強を決定し、米空軍は枯れ葉散布を行うランチハンド作戦(Operation Ranch Hand)を開始し、10年間余り1971年10月まで使用が継続された。ホーチミン市周辺だけでも散布面積は530平方キロに及んだ。枯れ葉剤の中には高い発癌性、催奇形性をもつ「テトラクロロジベンゾ―P-ジオキシン」を含む「オレンジ剤」と呼称されるものが1965年から70年にかけて使用された枯れ葉剤全体の実に58・4%を占めていた。枯れ葉剤は直接それを浴びた世代だけでなく、その影響は第2、第3世代にまで及び、現在に至ってもベトナムの人々を苦しめている。
米国はイラク戦争でサダム・フセイン政権が大量破壊兵器を保有していると主張し、また2011年に始まるシリア内戦でもアサド政権軍が化学兵器を使用したとして、空爆を行ったが、米軍自身が負の影響が最も深刻な化学兵器を使用していた。
近代戦において大量破壊兵器としての化学兵器が最初に使われたのは、第一次世界大戦においてであった。毒ガスを発明したのはドイツの天才的な科学者フリッツ・ハーバー(1868~1934年)だった。ハーバーはドイツ国籍をもつユダヤ人で、化学肥料の発明でその名声を博していた。彼はドイツ陸軍省からの依頼で西部戦線の塹壕戦で使用される毒ガスを開発していく。空気よりも重く、地を這うように敵の塹壕に広くいきわたり、また臭いもなく、輸送も容易なものが考案の目標とされ、ハーバーや助手たちの実験の結果、塩素ガスが有効であるという結論にいきついた。
塩素ガスは、2018年4月、英米仏がシリア政府軍の使用が認められたと主張した化学兵器である。塩素ガスはドイツでは原料となる岩塩が豊富に採れ、またボンベに詰めて簡単に運搬できるというメリットがあった。1915年4月22日に、ベルギーのイープルの戦いで最初に使用され、この戦闘では連合軍は5000人が犠牲となり、1万5000人がガス中毒症状を起こした。ドイツの化学兵器使用は敵の連合国軍にも化学兵器への関心をもたせることになり、第一次世界大戦では化学兵器戦の応酬が行われ、化学兵器戦の中で130万人が死傷し、また9万1000人が亡くなったと推定されている。
1925年のジュネーブ議定書によって毒ガスの使用は禁止されたが、その開発、生産および貯蔵までは禁止されていない。その後のベトナム戦争における枯葉剤散布やイラン・イラク戦争における化学兵器の使用などによってジュネーブ議定書は空文になり、国際規範が現実の戦争のなかで踏み倒されていった。
第二次世界大戦後に化学兵器が使用された例とすれば、1988年3月にイラクのサダム・フセイン政権がイラクのクルド人の町ハラブジャと、イラン・イラク戦争中にイラン軍に対して用いたことがあった。イラク軍は、オウム真理教が製造、使用したことで日本でも知られることになったサリン、VX、マスタードガスなどの化学兵器を実戦で用いたが、このようにイラクが人道への罪を犯していたにもかかわらず、米軍はイラクに対してイラン軍の配置や装備などの情報を提供し、また戦闘計画も供与していた。米国をはじめとして欧米諸国は、対立するイランに対して使用されたために、強い非難の声を上げることはなかった。欧米の「二重基準」だが、イラク開戦の際には化学兵器を含むイラクの大量破壊兵器保有を理由に攻撃に踏み切ったが、ついに大量破壊兵器は見つかることはなかった。
除草剤、枯れ葉剤はベトナム戦争のところでも述べたように、その影響が長い期間、何世代にわたっても人々を苦しめるものがある。ビッグモーターの店舗前の街路樹や緑が失われた件について行政はしっかり調査、追及してほしい。無責任な、秩序ない企業がやったことだからなおさらのことだ。
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