「くちなしの花」と、アフガニスタンで信頼された「乙女の住む国」
渡哲也さんのヒット曲「くちなしの花」(1973年発表)の作曲をした遠藤実氏は日経新聞の「私の履歴書」の中で、ポリドール・レコードから戦没学徒であった宅島徳光氏の遺稿集『くちなしの花』の中にあった詩の一節をモチーフにして曲をつくってほしいという依頼があったと語っている。
その詩の一節は、
「俺の言葉に泣いた奴が一人
俺を恨んでいる奴が一人
それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人
俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
みんな併せてたった一人……」
(大光社刊『遺稿くちなしの花』から)
というもので、学徒兵の恋人への切なる想いが表されている。この一節から渡さんが歌った「くちなしの花」の詩を水木かおる氏がつくり、遠藤さんが作曲した。
宅島氏の遺稿集の中に次のようなやはり恋人に宛てたものもあるが、恋人への愛と国家との間で揺れる戦時下の若者の懊悩や、あるいはやるせない想いも表されている。
「はっきりいう。俺は君を愛した。そして、今も愛している。
しかし俺の頭の中には、今では君よりも大切なものを蔵するに至った。
それは、君のように優しい乙女の住む国のことである。」
宅島氏は「君に会える日はもう充分ないだろう。あるいは永久にないかもしれない。」とも書いているが、若者の将来を奪う戦争の無情さをあらためて知る思いにもなる。宅島氏のようなはじめとする尊い犠牲の上に日本は戦後「乙女の住む国」のように、戦争を放棄する国となった。
一昨日、8月15日は日本の終戦記念日であると同時に、2021年にアフガニスタンのタリバンが首都カブールを制圧した日で、丸2年が経った。米国の「帝国主義」がアフガニスタンで破綻したことを見せつけた日でもある。米国のアフガン戦争が始まった時、中村哲医師は「今アフガニスタンに必要なのは水と食料であり爆弾の雨ではない」と主張した。米国は水と食料の自給体制をつくることなく、アフガニスタンから撤退していった。帝国主義とは侵略した国の民生の安定をそもそも考えることなく、自国の利益の獲得、確保のみを目指すもので、現地の人々の猛烈な反発を受けて失敗して撤退を余儀なくされてきた。
アフガニスタンの対日観について中村哲医師は2015年の8月30日、山口県宇部市での講演の中で下のように語っている。(長周新聞2019年12月5日掲載)
「100年前のアジア世界では、日本・アフガニスタン・タイを除く全アジア諸国が欧米列強の植民地・半植民地だった。その時期に極東の小国・日本が大国のロシアと戦争して負けなかった。このことが非常に大きな励ましとなり、アフガニスタンでは世代から世代へと語り継がれている。『日本はちっぽけな国だが、理不尽なことに対しては、たとえ相手が大きくても屈しない、不撓不屈の国』という誤解が生まれている。
日本も同じように戦後の荒廃から立ち上がった国だが、一度も外国に軍隊を送ったことはないという信頼だ。日本人は国連職員よりも安全だというのが一昔前まで一般的だった。しかし、そのメッキが少しずつはがれつつあるのが現状だ。」
戦後日本が営々と築いてきて、アフガニスタンでも信頼された平和国家のイメージはまさに「乙女の住む国」のそれだった。メッキがはがれていったのは、湾岸戦争、イラク戦争と米国の戦争との一体化を進め、現在はやれ集団的自衛権だとか、やれ台湾海峡危機とか対米一辺倒化をいっそう見せつけている。ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏によれば、「積極的平和」とは「暴力や戦争を乗り越えて、信頼と協調で成り立つ状態」のことだ。まさに中村医師が目指した理念、構想だが、それとは真逆のように、現在の日本政府は核抑止で平和を考え、ウクライナには装備品を提供するなど軍事力で敵を圧倒するというアフガニスタンで破綻した米国の「積極的平和主義」に加担している。