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威張る政治家と諂上欺下(てんじょうぎか)の政治学

 Xの書き込みを見ていたら自身が所属する派閥の長である麻生太郎氏には低姿勢で、官僚には厳しい河野太郎議員の動画が出てきた。諂上欺下(てんじょうぎか)という四字熟語の意味は「自分よりも力のあるものには媚びを売り、自分よりも力のないものには馬鹿にした態度をとること。」で、「上(かみ)に諂(へつら)い下(しも)を欺(あざむ)く」とも読むとある。(四字熟語辞典より)

https://ameblo.jp/4493/entry-12776700603.html


 イスラム神秘主義の詩人ルーミーは、へつらいの言辞は、善きものではなく、神の恩寵もなく、人々の将来を危うくさせてしまうということを強調したが、河野氏のふるまいはまさにそのような印象を受ける。「諂上欺下」では国民の心をとらえることはできない。



 バングラデシュやソマリアなどで上総掘りの技術を普及し、その教育のための「風の学校」を創設した中田正一は、「人のために何かをしてやるというのはいつわりだ。援助ではなく、ともに生きることだ。それで我々も支えられるのだ」という持論をもっていた。中田氏は「『人の為につくした』とか『途上国に協力した』とか、威張るのではない。昔の人は、よく知っていた。人の為めと書いて、偽(いつわり)と読ませた。」と書いている。(中田正一『国際協力の新しい風』232頁)日本が中東イスラム世界での支援で評判が良いのは多かれ少なかれ、中田さんのような意識をもっているからではないかと思えてくる。アフガニスタン支援活動を行っていた中村哲医師も中田氏を評価していたが、教え、教えられる協力関係、人間交流こそがまさに長い期間にわたって伝えられ、地理的にも広い範囲で人々の利益になる。政治の世界もそうだろう。国民のためとか威張っているような政治家には国民の心はなびかないし、そのような政治家が国民に利益をもたらすことはないだろう。


 フランスでは最近パリ近郊の小学校で6年生の歴史の指導要領にフランスの植民地支配の肯定的側面と否定的影響の両者を併記するように書かれてあることが明らかになった。フランスの植民地支配は先住民の疲弊や資源の搾取がヨーロッパ人の利益になるように行われる一方で、19世紀フランスのアジアやアフリカの植民地行政システムが「学校、道路、橋の建設」などヨーロッパ文明やキリスト教の普及に役立ったこと、また植民地住民に暴力、奴隷化、疎外をもたらしたものの、原料の獲得や肥沃な土地を求めてのものだったと記されている。

 フランスが地中海を隔てたアルジェリアを占領する動機となったのは、ナポレオン戦争の退役軍人たちに雇用を提供するという狙いもあった。1830年7月5日に、フランス軍がアルジェに上陸すると、アルジェやその周辺を略奪し、またアルジェリアの耕作地の大部分を接収した。こうしてオスマン帝国の自治州としてのアルジェリアの歴史は終わった。

 フランスのアルジェリア支配は最初から最後まで暴力と、支配する側と支配を受ける側の相互の無理解や不信によって性格づけられていた。フランス支配下のアルジェリアは極端な貧困、政治的弾圧、飢饉、虐殺などで性格づけられていた。


 現在のイスラエルによるパレスチナ支配を彷彿させるものだ。28日、ガザでの戦争を行うイスラエル軍は、今度はヨルダン川西岸を複数の都市を空爆し、難民キャンプ、病院などを襲撃した。イスラエル極右政権のイデオロギーはヨルダン川西岸まで呑み込んでしまいそうな気配だ。イスラエルは中田氏が説くようにパレスチナ人と共に生きる姿勢がなければ、フランス支配のアルジェリアと同様にパレスチナ人との暴力の応酬に終始し、そのために莫大な資源を消費、結局はフランス同様に敗れて国家が破綻する可能性もある。

おお、弱い者よ、強い者に堪え忍べ
いつの日か、そなたが彼より強くなるから
決意を固めて暴君に対し叫びをあげよ
決意の腕は暴力の手に勝る
唇が渇き、虐げられた者に「笑え」と言え
暴君の歯はいつか抜かれよう -サーディー『果樹園』

 欧米も戦前の日本も、また現在のイスラエルの植民地主義が成功しないのは、中田氏や中村哲医師の考えとは違って「諂上欺下」の姿勢があるからだ。

 「ターン、ターン、ターン」は旧約聖書の「伝道の書(コレヘトの言葉)」3章の一節からの出典でピート・シーガーがメロディーをつけたもので、バーズがカバーして全米NO1ヒットとなった。

愛するための時があり、憎しむための時がある
戦争の時があり、平和な時がある
抱擁するときがあり抱擁を拒む時がある
平和のための時
それはまだ遅すぎではないのだと
私は声を大にして言うのだ
http://www.tapthepop.net/roots/49548

というもので、平和への想いが表されるが、「ターン、ターン、ターン(変わる、変わる、変わる)」という表現は仏教の無常観にも通じるものがあるようだ。人間が苦を脱却するための哲理として無常観があるならば武力による圧倒も常ではない。

ターン、ターン、ターン https://www.soundfinder.jp/products/view/1454872


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