第0.山口先生のリプライ
哲学者の山口尚先生のオンライン講義
【第8回 時間・偶然研究会】山口尚「〈割り切れなさ〉再訪─道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也」
の原稿として書かれた山口先生の2023年3月26日付note記事(「〈割り切れなさ〉再訪――道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也」(以下「講義原稿」))
(*1)(山口先生が2024年1月頃noteのアカウントを削除され、引用元の文章を見ることができなくなってしまったので、末尾に全文を掲載しました。)
に対し、私は、上記動画のコメント欄に次のコメント(以下「第一リプライ」)を書いた。
(以下、私のコメント)
「彼にたまたま与えられた性格」や「たまたま倨傲な性格を与えられたひと」についての疑問:
「私はたまたま男に生まれた」と他人が言えば、私は、「冗談じゃない。男である人間、「それが」あなたなのだ」と言いたくなる。しかし、自分については「私はたまたま男に生まれた」は真だと思う。
つまり、「その人」と「その人の諸性質」の結びつきがたまたまなのか否かは、初発には(物事の起こりはじめとしては)、
・他人に関しては、「「その人」とは「その人の持つ諸性質の束」「のこと」なのだから(そこに楔を打ち込む隙間はないので)、「その人」と「その人の諸性質」を分離して、その結びつきをたまたまだとかたまたまじゃないとか論ずること自体がおかしい(できない)」と言え、
・自分については、「「その人」が自分であること自体がたまたまなのだから、私と私の諸性質の結びつきは全てたまたまだ」と言える。
そして、自他の区別なく、人間一般について語ろうとすれば、上記2つが両方とも正しいとされて(人にはその両方の側面がある、とされて)、「誰しも「その人」とは「その人の諸性質の束」「のこと」である、という側面と、たまたまその諸性質を持っている、という側面がある」、とされてしまうのではないでしょうか。
つまり、その「たまたま倨傲な性格を与えられたひと」が自分なのか他人なのか(永井均の哲学の用語を借りれば〈私〉なのか〈私〉ではないのか)を抜きにしてこの問題を論ずることはナンセンス且つ不可能なのではないでしょうか。
(そしておそらく、この問題はこの講義全体の議論にも影響を及ぼすのではないでしょうか(たとえば、「私たちが具えるふたつの視点」の源流は「日常的と科学的」や「内的と外的」にあるのではなく、「自と他」の決定的な差異にこそあるのではないでしょうか)。)
(私のコメント終り)
これに対し、山口先生から、2023/4/2のTwitterのツイートで次のご返事を頂きました(「みや竹」は私のTwitterのアカウント名です)。お忙しい中、先生にとっては全く益の無いことに時間を割いていただき、まことにありがとうございます。
(以下、山口先生のリプライ)
・みや竹さんが指摘された問題は、おそらくみや竹さん自身のご関心にかかわるものと見受けられ、何かしら意味のあるもののように思われます。
・他方で、おそらくみや竹さんは、ここでの「たまたま」を(論理的あるいは形而上学的な様相としての)偶然と捉えていると思われますが、それは正確でありません。 ちなみにこれは道徳的運が取り上げられるさいにしばしば生じる勘違いです(これは「たまたま」という語の多義性に起因します)。
・ここでの「たまたま」は「コントロールを超えていること」を意味します。それゆえ、あらゆることが(論理的あるいは形而上学的な様相の意味で)必然的な世界においても、《私が教師をしていること》は私にとってたまたまでありえます(というかおそらくこの場合はじっさいにたまたまです)。
・「たまたま」を偶然性ではなく、一貫して〈自己のコントロールを超えていること〉と捉えると、本発表の道徳的運の問題はピンとくるものになると思います。(了)
(山口先生のリプライ終り)
これに対し、さらなるリプライを上記動画のコメント欄に書こうと思ったのですが、文字数制限があって書ききれなかったので、ここに書くことにいたしました。
以下は、山口先生の上記リプライに対する再度のリプライとなります。
第1.私は「たまたま」の意味を誤解していない
1.私は、2019年7月に、たまたま手にした「現代思想2017年12月臨時増刊号(vol.45-21)」所収の山口先生の論考(「自由意志の不条理 分析哲学的-実存的論考」)を拝読し、強い感銘を受け(「自伝的叙述」を読み、仲間がいた!と思った)、「現代思想」編集部気付で、山口先生宛に本名の宮武徹雄名でファンレターを出したことがある(お手元に届きましたでしょうか)。そこにも詳述したが、私は、15歳のころから10年以上にわたり、まさにこの問題(「コントロールを超えていること」の意味での「たまたま」の問題)と全くの徒手空拳で(これが哲学の問題だとは全く考えなかったからである)格闘した。この問題を「たまたま論」と名づけ、自分ひとりの考えと思い込み、深刻に苦しんだ。当時の私の「人生を賭けた」問題だった。
2.当時これに苦しんだのは、ある人の行為や性質に価値を見出したり、ある人を称賛したり評価したり、逆にある人を責めたり、責任を問うたり、ということを、私が全くできなくなってしまったからだった。また、自分の「考え」や「行動」のいちいちに、強迫的に、「これもたまたま」「それもたまたま」とチェックが入ってしまうために、すべての思考・行動にストッパーがかかってる感覚があった。当時の心境を一言で言えば「苦しい」「空しい」であった。たとえば私は次のように考えていた。
・ヒトラーだってたまたまそう生まれて、たまたまそう育って、ああなっただけじゃないか。誰だってヒトラーに生まれてヒトラーに育てばヒトラーになるだろ。それがあの「ヒトラー」なんだから。そのヒトラーを誰が責められるんだ。
・同級生のUは△△な性質の故に△△な評価を受けているが、たまたまそう生まれ、たまたまそう育っただけじゃないか。逆の評価を受けているSとどう違うんだ?両者ともたまたまそうであるにすぎないのに。
・なんで刑事裁判では同情すべき人だけ減刑されるんだ。何ら同情すべき余地のない人だって、たまたま、どうしようもなく、そこに至ったという点では、全く、100%、同じではないか。
・障害者が「誰も好きで障害者に生まれたわけではない・そうなったわけではない」という理由で同情されるのなら、どんな悪人だって「好きでそう生まれたわけではない・そうなったわけではない」という意味では、全く、100%、同じではないか。
・「あなたと同じ劣悪な環境に育っても道を踏み外さなかった人もいる」だって?ふざけるな!本当に「全く同一の環境」に育って、結果が違うなら、原因はその人にとってたまたまとしか言いようがない「生まれつき」以外にあり得ないではないか。誰が生まれつきの性質の責任を取れるんだ?
等々。
こんなことを、10年間、来る日も来る日も一人で考え続けた。
3.25歳のころ(1980年代後半)、「たまたま」に対置されるべきが「たまたまではない」ではなく(それは理屈上不可能)、「現に」であることに思い至り、「たまたま」が頭に思い浮かぶたびに、積極的に次のように自分に言い聞かせることにより、なんとか普通の人間になることができた。
・ベン・ジョンソンは「たまたま足が速い人」なのではない。「現に」足が速い人なのだ。もし足が速いことに価値があるのなら、だから彼は価値がある人なのだ。
・ヒトラーは「たまたま悪人になった人」なのではない。「現に」悪い奴なのだ。だから彼が処罰されるのは当然なのだ。
・ある人が美しく、そして美しいことは価値があるのであれば、その人がたまたま美しく生まれたのだとしても、その人は「現に」美しいことによって価値がある。その因って来たる由縁が「たまたま」だとしても、その価値はいささかも毀損されない。
等々。
それ以降この問題で「苦しむ」ことはほぼなくなり、普通の人のように、人を責めたり、褒めたりすることができるようになった。普通の人とは、人を評価したり責めたりするときに、「現に」と「たまたま」を適当に(適切に)、いいかげんに(良い加減で)、特にそこに矛盾を感じることなく、意識することもなく自然に、使い分けることができる人のことだったんだ!、というのが、苦しみを脱した時の私の率直な感慨であった。
4.この問題で苦しまなくなって以降も、私はこの問題を断続的にではあるが考え続けてきた。ここ10年くらいは永井均の哲学がごく一部だが理解できたような気になり、それも自分なりに応用しつつ考えている。
永井哲学はご承知のとおり〈私〉の存在と〈今〉の存在という誰の目にも明らかな2つの事実から出発する哲学である。この哲学を学んだことにより私は、たまたま論(運の支配論)も、私におけるそれと他者におけるそれとではまったく意味が異なってくるのではないかと考えるに至った。永井均「哲学探究1」17頁の言葉を借りれば、(たまたま論もまた)〈私〉の存在を最初に捉えそこなったために生じた偽の問題設定ではないか、と考えるに至った。
5.以上の事情からすれば、私がこの「たまたま」の意味を誤解したり捉え損なっているということは(おそらく)ない。
たとえば、第一リプライの、「「私はたまたま男に生まれた」と他人が言えば、私は、「冗談じゃない。男である人間、「それが」あなたなのだ」と言いたくなる。しかし、自分については「私はたまたま男に生まれた」は真だと思う」に使われている「たまたま」も、私は、偶然の意味ではなく、「自己のコントロールを超えていること」の意味で使っている。以下でも、特に断りのない限り、「たまたま」をこの意味で使う。
6.であれば、逆に、山口先生こそが、私の第一リプライの真意を理解していない可能性がある。そこで、以下、第一リプライの(理解を促すための)補足を行う。
第2.二種の「運の支配」論
本講義では、二種の運の支配論が主張されている。
1.ひとつは、「その人」が「そう」であることの一切合財(その人が今持っている全性質、その人が置かれている一切の環境、その人の意志の内容)は、つまるところ、その人にとってたまたまなのだから(その人がコントロールできたことではなかったのだから)、その性質や環境のゆえに彼が起こした事件について、彼の責任を問うことはできない、という主張である。
講義原稿ではサイラスの事件などにおいて主張されている。サイラスは、
①たまたま臆病ではない性格であり、
②たまたま殺そうと思ったのであり、
③たまたま手近に鉄の棒があったのだから、
彼の起こした殺人について彼に責任を帰すことはできない、という主張である。
2.もうひとつは、人の行為は、科学的視点から「引いて」見れば(あるいは逆に「接近して」見れば)「出来事」に過ぎず、行為者に責任を負わせることはできない、という主張である。
講義原稿では主として第5節でネーゲルの議論に即して主張されている。
3.以下では、前者の主張を「たまたま論」と言い、後者の主張を「無意志論」と言う。
注意すべきは、行為の内容、意志の内容はあくまでもたまたま論による「たまたま」であり(彼がそばではなくカレーを選択したことは「因果の連鎖を遡って、最後には彼のコントロールを超えた遺伝および環境に行きつく」)、それが「行為」であること「意志」であることが、無意志論により否定される(彼がカレーを食べたことは「行為」ではなく「出来事」である)、という点である。
4.この2つは一見よく似ているが全く別の主張であり、主張がもたらす帰結もある意味では正反対になる。結論から言えば、たまたま論は「私に責任はない」という帰結をもたらし、無意志論は「他者に責任はない」という帰結をもたらす。以下ではまずたまたま論から見ていく。
第3.私は「たまたま存在」であり、他者は「のこと存在」である(たまたま論)
私の主張の結論を先に述べれば次のとおりである。
①私が宮武徹雄であること(宮武徹雄が〈私〉であること)はたまたまである(ただし、この「たまたま」は、「自己のコントロールを超えていること」の意を含み、しかしこれに尽きない)。
②このたまたまは唯一無二である。山口先生が言う「私が山口尚であることはたまたまである」は(初発には)端的に無意味である。「あなた」は「山口尚という人間」なのだから、そのあなたが言う「私が山口尚であることはたまたまである」は、「山口尚が山口尚であることはたまたまである」と言っているに過ぎず無意味である。
③たまたま論の「たまたま」は、①の「たまたま」が誰にとっても正しいと言語的に解釈された結果(言語は、「私はたまたま宮武徹雄である」と「私はたまたま山口尚である」を区別しない)、この意のうちの「に尽きない」部分が剥ぎ取られ、単に「自己のコントロールを超えていること」の意のみを有するものに変質したものである。即ち、山口尚が言う「私が山口尚であることはたまたまである」も、ヒトラーが言う「私がヒトラーであることはたまたまである」も、大谷翔平が言う「私が大谷翔平であることはたまたまである」も認める世界における、各発言に現れる「たまたま」が、たまたま論のたまたまである。
この主張は、私には当たり前のことに思えるし、直観的に理解できる人にはこれ以上の説明は不要だと思う。直観できない人に対する説明のルートはおそらく複数あると思われるが、以下はその一例である。
1.たまたま論は正しい
講義原稿にある、「因果の連鎖を遡って、最後には彼のコントロールを超えた遺伝および環境に行きつく」「彼自身にコントロールできない遺伝および環境の結果としてサイラスの初期的な性格は形成され、この初期的性格と外的要因の組み合わせは彼のその後の行動を生み、そのフィードバックとして彼の性格は修正されていく――こうした因果の流れにおいては、先行する状態が後続する状態を決定する。したがって、出発点の遺伝と環境のあり方が彼のコントロールを超えている以上、《サイラスが現在何を意志するか》も彼のコントロールを超えた原因の結果なのである。」は、15歳からの10年間私が考えてきたことのまさに代弁であり、これは全面的に正しい。実例を挙げれば次のとおり。
・私はたまたま男である
・あなたはたまたま教師である
・ヒトラーはたまたま悪人である
・大谷翔平はたまたま野球が上手い
2.たまたま論は不可避的に全面化する
(1)裁判の情状酌量だとか、最近なら「親ガチャ」論などにより、たまたま論は部分的には一般的にもよく主張される(例:「彼が障害を持って生まれたのはたまたまだ」「自分では選択できない幼少期の環境により彼の犯罪性癖は形作られた」など)。しかし、我々のたまたま論はこんな生易しいものではない。
つまみ食い的にたまたま論を援用して、「たしかに生まれつきと幼い時の環境は本人にとってたまたまだけど、大きくなってからの自分の意志内容にはたまたまじゃない要素がある(そこにこそその人の真価が現れる)」とか、「同じ劣悪な環境に育っても、犯罪に走らない人もいる(だからあなたには責任がある)」などは言えない。講義原稿にあるように「《運をどう引き受けるか》への自分なりの答えを与えることすら運に支配されている」のである。このように、たまたま論は正しいから認めなければならないが、中途半端にではなく、全面的に、徹底的に認めなければならない(認めないわけにはいかない)。即ち、たまたま論は不可避的に全面化する。
(2)話は逸れるが、その意味では、講義原稿の最終段落も次のようであるべきだったのではないだろうか。
「何が言いたいかと言えば次だ。すなわち、《運をどう引き受けるか》を「自分のコントロールできる事柄」と見なしてその仕方を選ぶことと、《運をどう引き受けるか》への自分なりの答えを与えることすら運に支配されていると自覚しながらその仕方を選ぶことのあいだには無視できない違いがあるが、そのどちらに転ぶかさえも運次第なのだ、と。古田の哲学はひとを後者の境域へ引き入れるが、そもそも古田の文章やこの山口の文章を読むかどうか、読んでそれをどう理解するか、そのすべてがたまたまなのだから。古田の哲学は多くのひとを〈運の支配を徹底的に直視しながら自分の生き方を選ぶ〉という境域まで連れて来てくれるであろうが、決してそこにとどまることを自分に許してはいけない。「選ぶ」か否か、選んだ結果がどちらか、そのすべてがたまたまなのである。「選ぶ」より「たまたま」のほうが常に一歩先を行くのである。」
3.たまたま論は、「△△が私であることは、私にとってたまたまだ」と一般化されるべきである
たとえば先生から頂いたリプライ中の
「あらゆることが(論理的あるいは形而上学的な様相の意味で)必然的な世界においても、《私が教師をしていること》は私にとってたまたまでありえます」の部分も、
「あらゆることが必然的な世界においても、《山口尚を構成する(教師であることを含む)ありとあらゆる全性質、全経験、全条件》は私にとってたまたまです」であるべきではなかったか。
両親△△と△△の間に、△年△月△日生まれたこと。男であること。△△の生まれつきを持ち、家庭環境は△△で・・これら一切の普通に考えてたまたまな(コントロール下にない)ことはもちろん、一見したらたまたまではない(私のコントロール下にあると思われる)、たとえば昨日そばを食べたことも、「なぜそばを食べようと思ったか」「なぜそばを食べることができたのか」「そしてなぜそばを食べたのか」の原因にまで分け入り、これを遡って考えれば、結局は全てたまたまな(コントロール下にない)ことに到達してしまうからである(「因果の連鎖を遡って、最後には彼のコントロールを超えた遺伝および環境に行きつく」のだから)。
つまり、先生が言わなければならなかったことは、「あらゆることが必然的な世界においても、《山口尚(という人間)を構成するありとあらゆる全性質、全経験、全条件》は私にとってたまたまだ」ではなかったか。そして、《山口尚(という人間)を構成するありとあらゆる全性質、全経験、全条件》の束(塊)が即ち「山口尚(という人間)」なのだから、先生が真に言わなければならなかったことを一歩踏み込んで言うならば「山口尚(という人間)が私であることは、私にとってたまたまだ(コントロールを超えていた)」ではなかったのか。
実例を挙げれば次のとおり。
・私はたまたま「宮武徹雄という人間」である
・あなたはたまたま「山口尚という人間」である
・ヒトラーはたまたま「ヒトラーという人間」である
・大谷翔平はたまたま「大谷翔平という人間」である
・誰だってたまたま「その人間」である
4.「「たまたま」だからその人には責任を問えない(無責論)」「「たまたま」だからその人は称賛に値しない(無価値論)」は誤りである
第1の3項に記したとおり、私は10年間苦しんだ後、「現に」の境地に達して救われた。注意すべきは、「現に」は「たまたま」を否定するものではない点である。「たまたま」を認めつつも、それとは別のこととして「現に」なのである。
人に責任を問うたり、人を称賛したりするのには、本来この「現に」のみで十分なはずである。
実例を挙げれば次のとおり。
・ヒトラーはたまたま悪人だが、ヒトラーは「現に」悪人なのだから、ヒトラーは非難されるべきである
・大谷翔平はたまたま野球が上手いが、大谷翔平は「現に」野球が上手いのだから、(野球が上手いことが称賛に値するのであれば)大谷翔平は称賛されるべきである
5.たまたま論から無責論、無価値論が導かれる理由
ではなぜ、たまたま論から無責論や無価値論が導かれるのか。サイラスの例であれば、一般的にもたまたまと考えられる「手近に鉄の棒があったこと」だけでなく、普通はたまたまとは考えられない「臆病ではない性格であること」「殺人意志を有したこと」にまでたまたま論が適用されるのはなぜか。「鉄の棒」の例や「無理やりにこそばされた結果として笑ってしまったひと」や「舗装したての道路に気づかずに足を踏み入れて足跡をつけてしまったひと」の場合に――つまり常識的にもたまたまと考えられる場合に――「私たちがじっさいに採用している」「《コントロールが無ければ責任も無い》という原理」が、なぜ、常識的にはたまたまとは考えられない「臆病ではない性格であること」「殺人意志を有したこと」にまで拡大適用されてしまうのか。
それは、
・たとえば自分への非難・否定的評価に対しては「もしあなたが私だったらあなただってこうなった(①)」と感じ、
・たとえば他人への非難・否定的評価に対しては「もし私があいつだったら私だってああなった(②)」と感じ(これが「道徳」や「同情」の基礎にある事実である。曰く「他人の身になって考えなさい」)、
・たとえば他人への称賛に対しては「もし私があいつだったら私だってああなった(③)」と感じ、
・たとえば自分への称賛に対しては「もしあなたが私だったらあなただってこうなった(④)」と感じるからである。
もしそう感じないのであれば、「責任」を問う(たり「称賛」に値するか判断する)際に、「手近に鉄の棒があったこと」はともかくとして、「臆病ではない性格であること」「殺人意志を有したこと」にまで「たまたま」性が入り込む余地はなく、「現に」性だけで十分なはずである(たまたま論は「手近に鉄の棒があったこと」にとどまるはずである)。
そして重要なことは、①~④はたまたま論の別の表現であるという点である。
例を挙げれば次のとおり。
・(①の例)確かに私は私の意志で人を殺した。でも、それは、私がたまたまこう生まれ、たまたまこう育ち、・・・により、たまたま殺人意志を有し、殺人に至っただけなんです。すべてたまたまなんです。もしあなたが私だったら間違いなくあなただってこうなりました。だから私に責任はないのです。「たまたまそのポジションにいただけの」私のみが罰せられるのは不当です。
・(②の例)確かにヒトラーは悪人だ。それは間違いない。でも、彼にしてみれば、たまたまそう生まれ、たまたまそう育ち・・・により、たまたまあの性質になり、たまたまあの地位になり、たまたまあのような野望を抱き・・たまたまあのような結果になっただけなんだ。もし私がヒトラーだったら間違いなく私だってああなった。私に限らず、誰がなったってああなった。あの「ヒトラー」の存在がまさにそれを証明している。ヒトラーの責任を問うことが誰にできようか。彼は「たまたまそのポジションにいただけの」人間に過ぎないのに。
・(③の例)確かに藤井聡太は素晴らしい将棋棋士だ。でも、彼にしてみれば、たまたまあの才能に生まれ、たまたまその才能を開花する環境に育ったが故で、すべてはたまたまだ。もちろん本人は努力しただろうが、全く同じ環境に育って努力しなかった人と比べればそれが彼の「努力する才能」の故であることは明らかだし、逆に全く同じ才能(努力をする才能も含む才能)を持ったにもかかわらず努力をしなかった人と比べればそれが彼がたまたま巡り合わせた「努力を促す環境」の故であることは明らかだ。一切合財はたまたまだ。つまり、もし私が藤井聡太だったら私だってああなったのだ。誰だって、あのように生まれてあのように育てばああなったのだ。そんな彼を称賛できようか。
・(④の例)みんな俺のことを天才ピアニストだって褒めるけど、いやあ全部たまたまなんだよなぁ。たまたまこの才能で、たまたま音楽一家に生まれて、たしかに努力はしたけど、誰だってこの環境でこの才能だったら努力したと思うよ。その証拠に、仮にあなたが私と全く同じ才能で、努力する才能も含めて私と全く同じ才能で、いやいや才能だけでなく一切合財私と同じに生まれて、私と全く同じ環境に育ったら、それってつまり「俺」ってことだから、当然、俺と同じになるよね。つまり俺って、すべてがたまたまなのに称賛されているんだよね。
6.「もし私があいつだったら私だってああなった」は正しい
たまたま論から無責論、無価値論が導かれる理由①~④のうち、②と③、即ち「もし私があいつだったら私だってああなった」は正しい。ここで「あいつ」は固有名で指される特定の人間であり、私は〈私〉である。
実例を挙げれば次のとおり。
・もし私が山口尚だったら、私は、教師をし、@yamaguchi__shoのアカウントでTwitterをし、2023年3月26日に「〈割り切れなさ〉再訪――道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也」のタイトルでnote記事を書き・・・、要は山口尚だっただけである。
・もし私がヒトラーだったら、私だって(△△年に△△で△△の両親の元△△の性質を持って生まれ、△△の環境に育ったことにより性格は△△になり・・により)ヒトラーになった。
・もし私が大谷翔平だったら、私だって(△△年に△△で△△の両親の元△△の性質を持って生まれ、△△の環境に育ったことにより性格は△△になり・・により)大谷翔平になった。
7.「もしあなたが私だったらあなただってこうなった」は誤りである
たまたま論から無責論、無価値論が導かれる理由①~④のうち、①と④、即ち「もしあなたが私だったらあなただってこうなった」は誤りである。ここで「私」は固有名で指される特定の人間、即ち宮武徹雄であるが、「あなた」が何を指しているのかは不明だ。そして、もし「あなた」が固有名で指される特定の人間(たとえば山口尚)を指しているのであれば、「もし山口尚が宮武徹雄だったら」は意味不明であるし、もし「あなた」が一般的な自我を指しているのであれば、(初発には)そのようなものは端的に「無い」からである。「あなた」は山口尚「のこと」でしかない。
実例を挙げれば次のとおり。
・もしあなたがヒトラーだったら、あなたも全く同じことをした(意味不明)
・もしあなたが私だったら、あなたは宮武徹雄だった(意味不明)
・もしあなたが大谷翔平だったら、あなたも全く同じことをした(意味不明)
8.たまたま論は〈私〉についてのみ有意味である
つまり、「たまたま」性は、〈私〉と〈私〉以外の人とでは、まったく意味が異なる。「私はたまたま宮武徹雄である」は「〈私〉はたまたま「宮武徹雄という人間」である」と解すれば全面的に正しい。しかし、「ヒトラーはたまたま「ヒトラーという人間」である」は、前者の「ヒトラー」を「ヒトラーという人間」と解すれば無意味だし、前者の「ヒトラー」を一般的な自我と解するなら、(初発には)そのようなものは端的に「無い」からである。
実例を挙げれば次のとおり。
・私はたまたま宮武徹雄である(正しい)
・あなたはたまたま山口尚である(意味不明)
・あなたにとっては、あなたはたまたま山口尚である(意味不明)
・ヒトラーはたまたま「ヒトラーという人間」である(意味不明)
・大谷翔平はたまたま「大谷翔平という人間」である(意味不明)
* 3項で正しいとされた「あなたはたまたま「山口尚という人間」である」がここでは意味不明とされている点に(つまりここで一つの川を渡ったことに)注意していただきたい。
9.タテのたまたま論はヨコのたまたま論の、実在世界における投影像である
永井均の哲学から用語を借りて、「誰だってたまたま「その人間」である」をタテのたまたま論、「〈私〉はたまたま宮武徹雄である」をヨコのたまたま論と言うとすれば、タテのたまたま論は、ヨコのたまたま論の、「実在世界」(自他の区別なく誰でもが一般的な自我を有する「とされる」世界=「言語的」世界)における投影像であると言える。
10.ヨコのたまたま論がタテ化「され切る」ことはない
「実在世界」が前提とする世界像からするとヨコのたまたま論のタテ化は必然であるとは言え、タテ化され切ることはない。どこまで行っても、〈私〉が消えることはない以上、ヨコのたまたま論が消え去ることもない。
(1)たとえば、大谷翔平についての
①「大谷翔平が凄いのはたまたまだ。たまたま運動神経が良く生まれ、たまたまその才能を伸ばす環境に育ち、たまたま努力家で、その結果ああなったにすぎない。だから大谷翔平は一見すごく見えるけれど、現在の大谷翔平が持つすべての性質は全部本人がコントロールできないことにより決まったことで、本当は彼はすごくないのだ。称賛に値しないのだ。誰だって彼のように生まれ、彼のように育てば彼のようになるのだ。それが彼なのだ。これは彼に対する僻みなどではない。純粋に理屈から導かれる帰結なのだ。」
という一般論としての言説(タテのたまたま論+無価値論)は
②「大谷翔平は「現に」凄い。大リーグで二刀流であんなに活躍するなんて、凄い以外の言葉がない。その凄さの由って来る由縁が彼にとってたまたまだろうがそんなこと関係ない。現に凄い選手のことを「凄い」と言い、現に凄く感じるんだから、彼は文句なく凄い」
という反論(「現に」論)に負けるが、
大谷自身の
③「俺が凄いのはたまたまだ。たまたま運動神経が良く生まれ、たまたまその才能を伸ばす環境に育ち、たまたま努力家で、その結果こうなったにすぎない。だから俺は一見すごく見えるけれど、全部俺のコントロール外で決まったことで、本当はすごくないんだ。誰だって俺のように生まれ、俺のように育てば俺のようになるんだ。みんな誤解してる。俺はすごくない。全部たまたまなんだ」
という主張(ヨコのたまたま論+無価値論)は、
④「大谷さん、あなた「たまたまこう生まれた」って言いますけどね、そうじゃない。こう生まれた人、それがあなたなんですよ。たまたま努力家だったと言いますけどね、そうじゃない、現に努力家な人、それがあなたなんですよ。大谷翔平=あなた、なんだから、そこに隙間はないんだから、俺はたまたまこう生まれた、なんて言うこと自体「できない」んですよ。たまたまだとかたまたまじゃないとか、そういうふうに、「自分」と「自分の持つ諸性質」を分離すること自体出来ない。あなたとはその諸性質の束「のこと」なんですから。卑下する必要はない。あなたは「現に凄い人」なんですよ」
という反論(「のこと」論)に対して、
⑤「そうじゃない。あなた分かっていない。卑下しているわけではない。私がこういうと必ず卑下と取られる。そうじゃないんだ。端的な事実を、理屈からの帰結を、言っているに過ぎないんだ。私、気づいたら大谷翔平だったんです。気づいたらすごい才能だったんです。気づいたら努力家だったんです。全部たまたまなんです」と言い返すことによって勝利する。彼が言いたくてうまく言語化できなかったことは「いや、俺は「大谷翔平」が現に凄いことは認めてる。でも俺が大谷翔平であることはたまたまなんだ。「俺」とは大谷翔平「のこと」ではないんだ」だからであり、それだけは誰も否定できないからだ。もちろんその勝利を真に認めるのは、この「現実世界」の中では大谷本人しかいないわけだけど。
(2)たとえば、ヒトラーについての
①「ヒトラーが悪人なのはたまたまだ。たまたま生まれつき悪人で、たまたま劣悪な環境に育って自らの性格を矯正する機会を逸し、その結果ああなったに過ぎない。だからヒトラーは一見悪人に見えるけど、全部本人のコントロール外で決まったことで、本当は悪くないのだ。誰だって彼のように生まれ、彼のように育てば彼のようになるのだ。それを証明しているのがまさに彼なのだ」
という一般論としての言説(タテのたまたま論+無責論)は
②「ヒトラーは「現に」悪人だ。罪もない人を大量に虐殺した張本人だ。そういう人を悪人と呼び、悪人と評価するのだ。彼が悪人となった経緯が彼にとってたまたまだという事実は評価の際に一切関係ない。彼は「現に」悪人なのだ」
という反論(「現に」論)に負けるが、
ヒトラー自身の
③「私が悪人なのはたまたまだ。たまたま生まれつき悪人で、たまたま劣悪な環境に育って自らの性格を矯正する機会を逸し、その結果ああなったに過ぎない。だから私は悪人と言われているけれど、全部私のコントロール外で決まったことで、本当は私は悪人ではないのだ。誰だって私のように生まれ、私のように育てば、私と全く同じ行動を取ったはずだ。この間「あなたと同じような環境に育っても、立派な紳士になった人もいます」と言われたが、本当に全く同じ環境に育って別の結果になるのだとしたら、その原因は生まれつき以外にはありえないではないか。私の生まれつきを私がコントロールできたはずがないではないか。「あなたと同じ生まれつきでも、自分で努力してその性格を直した人もいます」とも言われた。冗談じゃない。本当に全く同じ生まれつきで、現在の状況が違うなら、それは環境のせいに決まっているではないか。俺が小さい時の環境を選べたか?選べない。自分で環境を選べるようになったとき、その時の俺の性格は、もうこの性格だったんだ。これは言い訳ではない。私がこう言うとみんな「言い訳だ」と言うけど、私は決して言い訳をしたいわけじゃないんだ。本当にたまたまとしか思えないんだ。誰か私をたまたまじゃないと納得させてくれるなら、私は喜んで死刑台に上る」
という主張(ヨコのたまたま論+無責論)は、
④「お前は「たまたまこう生まれた」って言うが、そうじゃない。こう生まれた人、それがお前だ。おまえが生まれつき極悪人なのだとしたら、おまえ=極悪人なのだ。そのおまえ(極悪人という性質をすでに含んでいるお前)が「私はたまたま極悪人に生まれた」というのは、「言い訳」だとか「卑怯」だとかではなく、そもそもまったく意味不明なのだ」
という反論(「のこと」論)に抗して、
⑤「俺は責任逃れをしたくて言い訳をしているのではない。本気で思っているのだ。私はたまたまこう生まれ、こう育ったに過ぎないのだ、と。お前もこう生まれ、こう育ってみればわかる。絶対こうなるから」
と言い返すことによって、最終的に勝利する。彼が言いたくてうまく言語化できなかったことは「「ヒトラー」が現に極悪人なのは認める。でも俺がヒトラーであることはたまたまなんだ。「俺」とはヒトラー「のこと」ではないんだ」だからであり、それだけは誰も否定できないからだ。もちろんその勝利を腹の底から認めるのは、この「現実世界」の中ではヒトラー本人しかいないわけだけど。
11.私は「たまたま存在」であり、他者は「のこと存在」である
以上縷々述べたことを別の観点からまとめれば、私は「たまたま存在」であり、他者は「のこと存在」である、と言える。私はどこまでも不安定な「たまたま存在」で、「この人間」になり切れない。それがゆえに、「たまたまこう生まれた」「たまたまこう育った」「ゆえに私の全性質は私にとってたまたま」だと言いたい(そしてそれはある意味で全面的・徹底的に正しい)。「現に足が速い人」であると同時に「たまたま足が速い人」であり、「現に悪人」であると同時に「たまたま悪人」なのだ。(よって、たとえば「たまたまの悪人」としてどこまでも無責を主張できる(もちろん通用しないが)。)
他方他者は「のこと存在」で、本来的に「たまたま」性がない。悪人であれば「現に悪人(のこと)」であり、足が速ければ「現に足が速い人(のこと)」である。それ以上がない。(よって、たとえば「現に悪人」として責任を負担させることができる。)
しかし、他人といえども、その人に「とっては」私だ。我々が他人を見る視線から「とっては私」性は拭い去れない。この観点から見れば、他人も「たまたま存在」になり得る。「彼だって、たまたまああ生まれて、たまたまああ育って、ああなったに過ぎないのだ」と。
また、他者の視線の内面化により、私も常に「そういう人間のこと」でもあるわけだから、「のこと存在」の側面から逃げることはできない。「悪人」になり切って反省して刑に服することもできるし、「凄い人」になり切って、何のためらいもなく称賛を受けることもできる。
ただ、私の出発が「たまたま存在」にあり、他者のそれが「のこと存在」であることはどこまで行っても消えないため、私が「のこと存在」に完全になり切ることはできないし、他者が「たまたま存在」に完全になり切ることもできない。私はどうしても自分がこの人間であることがたまたまとしか思えないし、他者が同じ主張をすれば「馬鹿馬鹿しい」としか思えない。
12.第一リプライにおける「その「たまたま倨傲な性格を与えられたひと」が自分なのか他人なのか(永井均の哲学の用語を借りれば〈私〉なのか〈私〉ではないのか)を抜きにしてこの問題を論ずることはナンセンス且つ不可能」だ、という私の主張は以上の理由による。
第4.私は「意志するもの」であり、他者は「物」である(無意志論)
1.無意志論はたまたま論とは全く異なる主張である
(1)たとえばサイラスを免責させる主張のうち、ひとつは次のようなものであった。
彼がたまたま臆病ではない性格で、その性格もあってたまたま殺そうと企図し、たまたま鉄の棒が手元にあり・・・即ち、彼がブロズキーを殺害した時に有していた彼を構成する一切合財――即ち「サイラスという人間」――が「彼」にとってたまたまだったのだから「彼」に責任はない。
この主張を私はたまたま論と名付け、
・サイラスが他人である場合、「サイラスという人間」とは別に「彼」などを措定することはできないのだから、この主張は成り立たない、
・サイラスが私である場合にのみ、「サイラスという人間」はどこまで行っても〈私〉にとってたまたまの存在にすぎないのだから(もちろん他人には通じない主張(共通言語では語れない主張)ではあるが)、〈私〉は(そっと沈黙しながらも、私にのみ通じる言葉で)自分を免責することができる、
・そしてこれこそがたまたま論の根底にある事実だ、
と結論付けたことになる。
(2)しかしこれでは終わらない。サイラスを免責させるもう一つの主張がある。たまたま論は、サイラスの殺人意志について、彼自身の意志であることを認めたうえで、しかしその意志内容が彼にとってたまたまなのだ、と主張したが、もう一つの主張は、そうではなく、「科学的な視点においては、人間の行動はすべて先行する出来事の結果であり、〈自分の行動を自分で決める主体〉は消滅する。「ひとが何かをする」と見なされていた現象は「ただ出来事が生じる」へ同化される」ため、そもそもその殺人意志は意志ではなかった(たんなる出来事だった)、だから彼を責めることはできない、という主張である。
これが「無意志論」である。
2.無意志論と自他
(1)サイラスが他人である場合、初発には、無意志論は端的に正しい。他人の原型(〈私〉により擬私化される前の他人)は物であり、一見「意志」により「行為」しているように見えても、「科学的視点」により俯瞰してみれば、あるいはぐっと接近してみれば、そんなものが錯覚だったと気づくのは、単に事実に気づいただけに過ぎない。もし「意志」でなした「行為」でなければ罰することができないというドグマを適用するのであればサイラスを罰することはできない。
※ただし、他方では、たまたま論により彼が「悪い」という性質を「現に」持っていることは明らかだから、「悪い機械」を回収するように、あるいは狂犬病に罹患した犬を隔離するように罰しても良いし、あるいは再度サイラスを「この世界」の住人に戻し、意志という虚飾を被せなおして、「人間として」罰しても良い。そこに本質的な問題はない。要するに、サイラスが他人である場合、無意志論の観点からは、彼に「責任」はなくなってしまうが、彼を罰する方法はいくらでもある、ということである。
(2)自由意志概念の故郷は、〈私〉の、「ふつうに物体なのに、なぜか内側から動かせる変な物体がある!」(永井均「存在と時間 哲学探究1」124頁)という驚きにある。これをどんなに「科学的視点」から見ようが、この自由意志が消えるわけではない。ちょうど、痛みの発生するメカニズムが完璧に解明され、それを私が完全に理解したとしても、叩かれれば痛いあの「痛み」は、〈私〉においては、びくともせずに残るように(自由意志は第零次内包をその本質とする、と主張しているわけではない(念のため))。
(3)まとめれば、他人にはもともと自由意志など無いが、他人に〈私〉を読み込むことによって、「他者の自由意志」なるものが「あることになる」。我々はそれを相互に認め合う世界に住んでいるが、「科学的視点」がこの虚飾をはぎ取ると、他者の自由意志なるものは存在しなかったという端的な事実に気づかされることになる。他方、この「他者に自由意志など無かった」という「発見」を、自由意志の故郷たる〈私〉にも誤って適用してしまい、「おかしい。自由意志などないはずなのに、私は今自分の意志で立ち上がった。矛盾だ」などと感じてしまう、ということである。
(4)上記立場からは、責任をとれるのは、唯一意志を有する〈私〉だけである。物たる他人に責任を取る権利はない。しかし、「我々」は、(まさに「我々」であることにおいて、)相手も責任が取れる主体であることを(つまり相手も「私」であることを)認めあう世界の住人である。この世界は、相互に私であることを、つまり相互に責任が取れる主体であることを認め合うことで成り立っているのである。
※余談になるが、これを時間論に置き換えれば次のとおり。〈今〉(真の今=2023年6月の今)、私に自由意志があることに間違いはない。それは、そばを食べるかカレーを食べるかを今自分で選べることから明らかだ。ところで私には、過去である2023年3月1日にも、そばを食べるかカレーを食べるか迷った末にカレーを選択した事実があるのだが、その際の私に自由意志はあったか。2023年3月1日を過去と見て、この決断をした際の私を「科学的視点」により徹底的に分析すれば、過去の私は既に他者なのだから、その際の私に自由意志など無かったことは明らかだ(「「ひとが何かをする」と見なされていた現象は「ただ出来事が生じる」へ同化される」)。しかし、過去である2023年3月1日と言えども、その時点では今であった。そして、その時点にとっての今(=《今》)と真の今(=〈今〉)とは、本質において同じなのだから、今(〈今〉)私に自由意志があるのであれば、その時の今(《今》)にだって私には自由意志があったので「なければならない」。今私がそばを食べるかカレーを食べるかを自分で選べるのであれば、その時だって「そばを食べるかカレーを食べるかを自分で選べ」たのでなければならない。「他者を他者として見る限り他者に自由意志など無いが、他者だってその人にとっては私だと見ればその他者に自由意志が発見される」のと類比的に、「過去を過去として見る限り過去の私に自由意志など無いが、過去だってその時点にとっては今だと見ればその過去の私にも自由意志が「あったことになる」」のである。
3.無意志論の帰結
かくして、無意志論は、たまたま論とは逆に、(初発には、)他者には責任がないが私には責任がある、という結論をもたらす。
4.第一リプライにおける「「私たちが具えるふたつの視点」の源流は「日常的と科学的」や「内的と外的」にあるのではなく、「自と他」の決定的な差異にこそある」という私の主張は、以上の理由による。
第5.余論
「第一リプライの理解を促す」目的は以上で達した(ことを願う)。
積み残された問題はもちろんたくさんあるが、そのうち2つを挙げる。
1.意志の内容はたまたまなのに、意志であり得るのか
今私がカレーではなくそばを食べているのはたまたまである(たまたま論)。しかし私は自分の意志でそばを食べている(無意志論)。これは矛盾(「そんなものを意志とは呼べない」)だろうか。
2.「手元に鉄の棒があったこと」もたまたまではないのか
他人であるサイラスが臆病ではなかったことは、たまたまではなく、(初発には、)「サイラスとは「臆病ではない性質を有する人」「のこと」」であった。では、サイラスが他人である場合、サイラスの手元に鉄の棒があったこともたまたまではなく、サイラスとは△年△月△日△時△分に手元に鉄の棒があった人「のこと」、なのか。
1はたまたま論と無意志論が逆方向を向いているために生じる種類の問題であり、2は他者に〈私〉をどの程度読み込むか(及び他時点に〈今〉をどの程度読み込むか)がどこまで行っても確定しないために生じる種類の問題である。その理解さえあれば、この種の問題にどのような説を採用するかはさほど重要なことではないと考える。(了)
*1 山口先生が2024年1月頃noteのアカウントを削除されたので、引用元の文章を見ることができなくなってしまいました。
山口先生の2023年3月26日付note記事(「〈割り切れなさ〉再訪――道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也」)は次の文章でした。
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*2 私の本note記事に対する山口先生のリプライの文章も、山口先生のnoteアカウント削除により読めなくなってしまったので、ここに張り付けておきます。
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