それでも、また春は訪れる
3月上旬の休日。天気が良かったのでカメラを片手に昔住んでいた家の周りと、宮崎神宮を散歩してきた。
先日春一番が吹いてからは風も随分と暖かくなったような気がする。そして、ささやかな春の空気の香りに変わってきた。
”春の空気の香り”がとても大好きだ。静かだった植物たちが目を覚まし、ゆっくりと寝ぼけながら呼吸を始めたことによって生み出される、目を閉じて空気を吸い込むとほのかに鼻腔にひろがる、優しい香りの心地よさ。冬の間、寒さで緊張を続けていた身体と精神が解れて、優しい気持ちになれる。
1年前、何をしていただろうとふと過去の写真を見直してみる。ミモザを部屋に飾って、家中ミモザの花粉まみれにした挙げ句、ついに花粉症デビューを果たし、鼻水を垂れ流していた。住んでいた家のバルコニーに人工芝を敷いて、BBQをしたりしていた。ダイアモンド・プリンセスに謎のウイルスの患者が大量に乗船していて、近所のスーパーでも新型コロナウイルスの患者が出た頃だった。どこに行ってもマスクとトイレットペーパーが無かった。これからなんだか恐ろしい世界がやってくるような、そんな終末感をビールで洗い流していた、気がする。
言うまでも無いけれど、世界と僕たちの暮らしは1年前とすっかり変わってしまった。移動の自由が精神的/社会的に制限されてしまった。中華を食べながらビールを飲むためだけに、友人とふらっとコンビニに行くような格好で、気軽に台湾に行くこともできなくなった。こんな世の中は望んでいなかったし、こんな世の中がやってくることすら、想像出来なかった。
それでも、また春は訪れる。
季節の香りというものは、時に過去の自分の見た風景を思い出させる。春の香りは、いつも僕に初めて宮崎にやってきた18歳の時の、これから何かが始まる高揚感と、真っ白なキャンパスのような心の中にあった心地よい空白のことを思い出させる。というわけで、何年か振りに昔住んでいた家の周りを散歩してみたのだ。友人が家に遊びに来はじめたこと、メモを持って晩ごはんの買い物に歩いて向かったこと、折り目のない、新品の大学のテキストが山積みで置かれた一人暮らしの部屋のこと。春の香りの中ふと立ち止まり、当時の通学路で目を閉じて空気を吸い込むと、そんな風景がブワッ、と浮かび上がってくる。もう14年前のことだ。
随分と世の中は変わってしまった。けれど変わらないものもある。離れていても、会えなくても、繋がり続ける家族や友人。自分の心の持ち方や性格、好きなもの、こと。変な言い方だけれど、こんな世の中になって、大切なものがブラッシュアップされたような気もしている。その工程の中で、自分が抱えていた不要な荷物のようなものは削ぎ落とされていく。コロナウイルスが終わったとしても、完全な元通りの世界や生活の再来は、実のところ僕は望んでいないのかもしれない。
Youtubeでサニーデイ・サービスの2020年12月23日、大阪サンケイブリーゼで行われたライブの「春の風」という曲を聴いていると、色々あったし、色々今もあるけれど、心の深い深いところにあるものは不変であると、そんな事を思わされた。声援も無く、スタンディングでもなく、ただじっとマスクをして、客席で座ってライブを見る観客。その前でひげもじゃの曽我部さんがギラギラの図太いテレキャスターの音を閃光のように鳴らして、歌う姿。心の中で燃えている感情が、湧き上がるような気分だ。
日々を抱きしめて、今を感じて、今を生きていく。
それでも、また春は訪れるのだから。