『プリシラ』
そういえばプレスリーの映画を劇場で観たことを思い出した。その時は監督が『ムーラン・ルージュ』『華麗なるギャツビー』のバズ・ラーマン監督だったからであるが、今回の動機もまた、娘コッポラの最新作だからである。
正直プレスリーの音楽はよく知らないし、いわんや彼の妻のプリシラなんて知らんがな(でもコッポラの最新作は観たい)の軽い気持ちで本作に挑んだわけだが、それが思ってた以上に良かったのでレビューを書いていこうと思う。
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この映画、題材的にドラマチックに描こうと思えばかなりドラマチックに描けると思うのだが、コッポラの視線は至って客観的だ。淡々とプリシラとエルヴィスを描くことによってエルヴィスの暴力性がより強調されている。
源氏物語は男のロマンなのか
プリシラとエルヴィスが出会うのはプリシラが14歳の時である。スーパースターの特別になった。少女が恋に夢中になるのにそれ以上の理由はあるのだろうか。
学校を転校してエルヴィスの邸宅に身を寄せることを両親は大反対したが、両親の反対を押し切るパワーがその恋にはあった。
エルヴィスの好みに沿って髪を黒く染め、アイラインを強調し、彼好みの服を着る。そこにプリシラの意見は一切ない。
家に電話をかけた時、必ず電話に出て欲しいと、彼女がアルバイトをすることを拒み、"その時"が来るまで性欲に支配されるのは良くないと彼女とは一切SEXはしない。(エルヴィスは厳格なクリスチャンである)
最初プリシラとSEXしないのはさすがに未成年であることを配慮してのことなのだろうかと思ったが、だったらそもそも彼女をメンフィスの自宅に転校させてまで囲わないだろう。結婚するまで処女である女性が彼にとっての理想の女性像だからなのだと気がついた時、全身に鳥肌がたった。きっもっ!
洗脳的に彼女を自分のコミュニティに閉じ込め、本来ティーンには与えられ得ない刺激を与え、そして時にはフィジカルな暴力で支配する。(そして暴力の後の謝罪はもちろんセットである。)
プリシラが出産間際に着けまつ毛をつけるシーンで確信した。エルヴィスの野望は叶ったのだ。
グレースランド
プリシラが夢のようだと感じたエルヴィスの邸宅であるグレースランドは彼女の胸のときめきを表現するが如く鮮やかだ。本作もコッポラの色彩感覚の素晴らしさが光っていて、本当に素晴らしい。
キラキラしたグレースランドに静寂が訪れる時、それはエルヴィスの不在を意味する。
劇中、意図的に誰もいない邸宅に一人立つプリシラの構図が何度か使われる。その構図は絵画のように美しく、美しいがためにより一層プリシラの孤独を強調している。
自分の人生を生きる
最終的に、プリシラはグレースランドを去る選択をする。
全てをエルヴィスに依存していた彼女がその選択肢をとる決断をしたことにまず驚くのだが、私は彼女の決断を讃えたい。
自分の人生を歩みたい。エルヴィスに別れを告げるシーンで彼女はそう言った。
彼女がそれまで自分の人生を歩んでいなかったのかと問われれば、それはそうではないだろう。私は自分の人生を生きるってことは自分で物事を決断することだと思うからだ。
グレースランドに身を置くこともエルヴィスの好みの外見になることも恋や支配があったとはいえ決めたのはプリシラである。プリシラは自分の人生を生きていた。ただ、それは本人の純粋な意思のみによって形成されているものではなかった。
他人に人生を決めてもらう方が自分の人生を歩むよりも何十倍も楽ちんだ。
それでも私たちは自分で人生を歩もうとする。
エンディングでI Will Always Love Youが流れた。
ほんまかいな、とちょっと思う。美化されすぎな気もする。
しかし、エルヴィスとの関係を最後I Will Always Love Youで包み込むことができるのもまた、本作のプリシラの強さなのかもしれない。