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子ども✖︎地域でアツい思いをもつ方=深い学びへ

地域と学校が同じベクトルで子どもの指導をできたら嬉しいですね。

新しい学習指導要領になり、社会に開かれた教育課程っていうのが強く叫ばれるようになりました。とは言え、叫んでるのは教育委員会の方々くらいで、現場ではほぼそんなことは関係なく淡々と授業をこなす日々が送られていると感じています。

新学習指導要領になる前はどうだったかというと、前からも社会に開かれた学校って言われていて、学校に足を運んでもらうということを目指していたようなところがあります。授業参観や学校公開デーなどなど。これって、学校に関心をもってもらうには大切なことで、子どもの学校での学びに関心をもち、家庭教育に生かしてほしいという意図を感じます。

むかーしむかしは、学校で学びが完結していたから学校に来てもらうということ自体が必要なかったのかもしれません。あったのかな?

ゆとり教育と呼ばれる時代は、少しでも家庭で過ごす時間を増やし、社会教育(習い事を含め)にふれる機会を増やそうとした、、、のだけど、お金がある家庭や子どもの教育に関心がある家庭の子とそうでない子の教育格差が広がったと言われています。嫌いじゃなかったですけどね。その時代に生活科がスタートし、その後、総合的な学習の時間ができてきました。総合的な学習の時間ができたころ、私は授業を受ける側だったので、「調べたいことを調べてみましょう」と言われて意味不明だったのを覚えています。何事も始まったばかりは不安がつきもの。きっと現場も振り回された感が拭いきれなかったはず。あれからもう何十年も経ち、未だに「調べたいことを調べてみましょう」みたいな総合をされている方もいるので、なくしませんか?みたいな声を上げる人もいます。残念ですね。総合的な学習の時間は、唯一(とまではいかなくても)自由な学びが保障された教科なのに。

さて、話が遠くにいってしまったので、戻しますと、社会に開かれた「教育課程」と言われたことによって、どう変わったかを簡単にいうと、『学校だけでは学びにくいこと(専門的なこと、体験を伴うことなど)や、学ばせられないことを外部の協力を得て子どもを育てましょう』ということだと理解してます。

農業体験とか、企業によるモノづくり、サービス業の経験などなど、学校ではできないことがあります。働く人の声は教師の語りでは味わえない学びが得られます。

子どもたちは手を使って学び、自分の経験したことを自分の言葉として発することで、学びを自分ごとにしていきます。そう考えると、自分でやってみて、うまくいかないから専門家に聞いてみたいということがあれば、主体的に学ぶことができるでしょう。

以前記事に書いたように、小学校段階で子どもたちに花を咲かせることを求めているわけではないです。ただ、地域でアツく働く方との出会いを通して学んだ経験は、子どもたちが大きくなっていく過程でなんらかの影響になってほしいと願っています。

これは、子どものためだけではなく、関わった方にとっても、「今の子どもならではのアイディアにふれることができる」「いずれ共に働くことになるかもしれない」「PRになる」など、win-winなことが多いです。大変なことといえば、一緒に学びを作っていくので、何を求めているかや、活動をすり合わせるためのミーティングに時間がかかる時があることでしょうか。授業研究だと思えば、かかるべくしてかかる時間です。

子どもも教師も楽しくない授業を70時間やるより、心に残る、その時にしかできない学びをしたいと思いませんか?

新学習指導要領は子どものよりよい成長だけではなく、教師の指導改善の意味合いも強いです。新学習指導要領になって、評価が変更されての研修がコロナによって行なわれず、現場では自ら学ぼうとした人以外教育に変化が起きていないのが現実です。

国研の評価の冊子(一冊2000円近いものがただでダウンロード可)を見るのもよいでしょう。共に、社会に生きる力を身につける教育改革していきたいですね!

控えめにいって、教師がめっちゃ楽しめますよ。どこに素材があるかは自ら探しますが、その時間も楽しめたらいいですね。

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