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言葉を知らないと概念が分からないそうです
しとしと
ぼたぼた
さらさら
びゅーびゅー
しんしん
ふわふわ
びちゃびちゃ
こういうオノマトペを始め、雪の多い地域では「雪」に関する表現が多くあります。雪のない地域には雪を表現する言葉は豊富にはないでしょう。
私が辛くても、ハーブが入っていても、一概にソーセージと呼んでいるものは、ドイツの方にとってはそれぞれ呼び名が違うでしょう。
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『翻訳できない世界のことば』という本もありますが、こういったものも日本人には表現することの難しい概念があります。逆も然りで、日本語にも外国語に訳せないものがたくさんあります。
言葉は、目の前にある事象を分けることができます。「分かる」の由来は「分ける」だとも言われます。
犬も猫も毛の生えた動物ですが、その違いを言葉にしたことによって、こっちは犬、こっちは猫と分けられます。分けたものに名前をつけると意味と言葉が結びつき完成します。
そして、これはどっちに分けられるの?という境界線にいるものは、新たな言葉が与えられていくのでしょう。
近藤麻理恵さんの片付け術がアメリカで大ヒットし、「konmariする」という動詞ができたそうですが、新しい概念が言葉として日々生まれてもいます。
小学校に入学すると、ひらがなを書き、カタカナ、漢字と書けるものを増やしていきます。また、3年生から辞書を使うようになります。
言葉には意味があることをきちんと捉えている教師は「意味」を教えてから「文字」を書けるようにしていくことでしょう。ただ漢字を書けるようにしたいと思っている教師は「文字」だけ教えていくでしょう。
どちらが子どもにとってのモチベーションになるでしょうか?
100の言葉を書き写しても、そこに関心や概念がなければ覚えることはできません。とすると、100取り組んでも得られるものは0です。
逆に、10でも、意味や概念が分かった上で取り組めば3くらいは覚えられるでしょう。なので、100取り組んで0よりも、10取り組んで3の方が学びの効率はよいと言えます。
授業中に、ピンポイントで「これってどういうことかな?」とか「この言葉ってどんな感じ?」と問うている教師がいいですね。
例えば、国語の物語で登場人物が、「かけ出した」とか「ほほえんだ」とか書いてあった場合です。
「走ったとどう違うのかな?」「笑ったと同じではないの?」など、言われると、改めて子どもたちは言葉を分けようとするでしょう。そうすると話の中の人物の心情がわかるようになります。
子どもたちが人の気持ちを分からないのではなく、(もちろん人の気持ちは分からないのですが)分かろうとする術をもっていないのだと思えてきます。
これは大人も同じでしょうし、わたしもそうです。
伝わらないからこそ、伝える努力をすることが大切だけれど、相手の受け取り方も受容的でないときにはうまくいきません。
「分からない」という子は分け方が分からないのだと思えたら、「どうしてこんなことも分からないの?」と言うのではなく、どこまで分かるかを分析してあげて、分かるようにしてあげるのが教師の仕事なのだろうなと思います。
先生方が起案する文書を直していると、「なんでこれじゃだめなのよ!」とあえて聞こえる声で話される方がいます。私自身未熟なところもありますが、言葉に敏感であって欲しいと願うからこそ直さなくてはいけないなと思っています。
同じ言葉でも、人を温かい気持ちにすることもできれば、傷つけることもあります。
使い方を知らなければ、便利な道具も凶器になります。
概念を知り、言葉を知る。そして使い方を知ることができる場として、教育が存在していてほしいと願っています。