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【連載企画】児湯・西都の地名考❶

地名にはその土地に暮らした人々の思いが詰まり愛着がある。児湯・西都地域の地名を紹介しながら、由来や変遷、人々の思いなどを紹介する。

このコンテンツは2006年4月12日~2009年3月25日まで宮崎日日新聞社本紙「児湯・西都版」面に連載されたものです。登場される方の団体・職業・年齢等は掲載時のものです。ご了承ください。


1 竹鳩だけく(高鍋町)

川の合流地点激流に由来か

 小丸川左岸の木城、川南町との町境にある高鍋町上江の竹鳩地区。「だけく」と読む独特の響きは、一度聞くと忘れられない珍しい地名だ。
 地名の由来にはいくつかの説がある。郷土史家で高鍋町立図書館長なども務めた石川正雄さんは、町議会だより(1989年)で連載した「地名の由来」の中で、1567(天正六)年の高城合戦の地形図(1820年書写)を基に、小丸川と関連付けて由来を紹介している。

◇     ◇

 竹鳩は今、小丸川左岸にあるが、対岸の地区と同じ大字上江に所属し、昔は地続きだった。地形図では、小丸川は対岸の木ノ瀬下から北流し、木城町境を流れ、竹鳩の裏で切原川と合流。石川さんはその合流地点の下流に「ダケクガフチ」と、その南岸に「ダゲキ村今ハナシ」との記載が見られることに注目した。

かつては竹や松林の荒れ地だった竹鳩地区。今では竹も
少なくなり、水田が広がっている

 さらに日向国史に「墮逆だげきケ淵」と書いてあることや、「ダケク」には激しい流れという意味があるとして、竹鳩はその当て字と推察している。
 別の説もある。漢字から連想できるように、竹とハトが多かったという説だ。高鍋藩主秋月家の時代にそういう記述が見られるが、石川さんは竹鳩の熟語の地名の単語が成り立つには、構成上無理があるとして俗説ではないかとしている。また竹鳩神社には1915(大正四)年に「多氣玖だけく神社」と記された板が残っており、地名とどう結び付くのか興味は尽きない。

◇     ◇

 現在は水田が広がる豊かな農村地帯となっているが、昔は竹や松林に覆われた荒れ地。大正から昭和にかけて、住民らは用水路開設や洪水の度にはんらんする小丸川に苦しみながら開墾を続けた。
 佐賀県から1929(昭和四)年に移住した百武熊太さん(80)は、しみじみと当時を振り返る。「昔は不毛の地で、親も子も必死に働いた。先輩たちの苦労がなければ、今の竹鳩の姿はなかった」
 小丸川とともに歩んできた竹鳩地区。大友宗麟おおとも・そうりん軍と島津義久しまず・よしひさ軍の激戦地の一つとされる「ダケクガフチ」も埋め立てなどが進み、今は公民館近くにわずかに面影を残すのみとなっている。

2 比木ひき(木城町)

土地の謎解く手掛かり「火」

 高鍋町中心部から県道木城・高鍋線で木城町に入り車で約十分。のどかな田園風景が広がる中を走っていると、前方に大きな鳥居が目に飛び込んでくる。比木神社のこんもりとした森が見えるこの一帯が「比木」だ。
 「昔、火事が多かったときに、地名に『火』がついてるのがいかんとじゃろと、変わったそうですわ」。比木で生まれ育ち、神社の近くに住む古老の言葉に驚いた。

◇     ◇

 言葉を裏付けるように、古くは「火棄」「火卉」と書いたが、周辺で度々失火があったため、仁寿二(852)年に「比木」に改めた、と「角川日本地名大辞典」(角川書店)にある。また、橋口清文宮司は「『火企』や『火貴』もあったようです。地区内には『火よけ牟田』という地名もあります」と教えてくれた。

水田の中にぽつんとたたずむ祠に炭火を納め、防火を
祈願する習わしが今も残る。右手後方の森が比木神社

 早速向かった火除牟田は神社西側の広域農道沿いにあった。周囲を見渡すと水田の中に、ぽつんと小さなほこらが目に留まった。毎年11月にある恒例の「裸祭り」で、この祠に炭火を納めて防火を祈願する習わしが今も残る。やはりキーワードは「火」のようだ。
 社伝では比木神社は約千八百前、第十三代成務天皇の時代に国・県・むら・里を定めたとき、当地方の「宗廟そうびょう」として祭られたという。主祭神は国土神のおさにあたる大己貴命おおなむちのみこと。併せて合祀ごうしされる福智王は、亡命してきた百済一族の王子。先祖代々、土地神を崇敬してきた里人たちが百済の王子を今なお祭り続けていることに、この地の奥深さがうかがえ、圧倒される。

◇     ◇

 神社には福智王が高鍋町蚊口浜に漂着し、地区民らの助けを受けて比木にたどりついた際、木城町や高鍋町内でお礼回りをしたのが起源とされる「お里まわり」が伝わる。そして、江戸期に高鍋藩主秋月家の姫が危篤に陥ったとき、夜を徹して神楽を奉納して平癒祈願したことがきっかけで始まった同神社を含む六社連合大神事の夜神楽が今も舞い継がれる。さまざまな祭からは、里人たちの火への畏怖いふやあがめの心が伝わる。
 そういえば、福智王と父の禎嘉ていか王の年一回の親子の再会を再現した「師走祭り」でも、迎え火の炎がハイライトだということを思い出し、ハッとさせられた。

3 穂北ほきた(西都市)

稲穂が垂れた方角すべて北

 西都市中心部から程近く、一ツ瀬川中流域に広がる平地に位置する穂北地区。川や肥えた土地の恩恵を受け、農業が盛んに行われている。地名に「穂」が付くことから、豊かに実った稲穂の姿が最初に頭に浮かぶ。やはり農業、特に稲作との関連性が高いのではないか。そう思いながら地域の歴史を調べてみると、古代神話の世界ともつながりが深く、由来には諸説あるようだ。

◇     ◇

 地誌や地名辞典などに記述が多く見られるのがニニギノミコトの神話にまつわる説。ニニギが降臨後、最初に開田して黄金色に実った稲穂がすべて「北」に向かって垂れていたから―というものだ。「稲穂」と「北」という二つのキーワードがうまく組み合わさり、すぐに合点がいく。

穂北は有数の農業地帯。稲作と西都原が地名の起源に
関係しているという

 農作業をしていた男性(67)に確かめてみると、「正しいかどうかはともかく、自分も子どものころからその説はよく聞かされていた。伝説だろうけれど、農業地帯らしい名前で一番納得がいった」と振り返った。
 地理的側面からの由来もある。名前に「穂」を持つ西都原の聖地・男狭穂おさほ塚、女狭穂めさほ塚の北側の地―という説。それに加えて郷土誌「穂北 上穂北村百年記念」(穂北史談会刊)は、「古墳をぎ祭るための米を作る田のあった所」を語源として紹介している。
 同郷土誌によると、ほかにも①ニニギが海路到着した場所(御舟塚)で下船する際、帆柱が北の方向に向かって倒された、「帆が北」説②「大きい」は旧仮名遣いで「おほきい」と読む。米の多く取れる良い田が広がっている土地柄から、「おほきた」説―などがあるという。

◇     ◇

 これだけ多様な由来があるのも珍しい。穂北で通算十数年間生活し、地域の歴史などに関する勉強会を開いていたという無職浜砂繁徳さん(86)=熊本市在住=は「男狭穂、女狭穂塚の説は、あながち見当違いではなさそう」と言いつつ、「そういえば稲穂が北に垂れていたような…。記憶違いかな」と苦笑。「由来はたくさんあった方が想像も膨らんで楽しい」と目を細める。
 今は多くのビニールハウスが立ち並ぶが、ゆったりとした田園風景だけは昔から変わっていないのだろう。穂北橋からの景色を眺めながら浜砂さんがつぶやいた。「私はこの風景と『ほきた』の音の響きが美しくて好きなんです」

4 宮之首みやのくび(新富町)

大きな神社の「入り口」説も

 一度聞くと忘れられない印象深い地名「宮之首」は、国道10号から西へ入った新富町三納代みなしろ鬼付女くずくめ川流域に広がっている。一面の田畑の中に住家が点在するのどかな農耕地帯で、鎌倉時代にまでさかのぼる古い歴史を持つ。人々の暮らしに思いをはせながら、地名の由来を探ってみた。
 町史によると1197(建久八)年の「日向国図田帳写」に「嶋津庄しまずのしょう寄郡よせごおり 兒湯こゆ郡内 宮頸みやのくび三十丁」の記述があるという。広大な荘園の一つだったことから、肥えた土地だったことが想像できる。近世になると宮之首地区は高鍋藩領となり、佐土原藩との藩境に。建立時期は定かではないが、鎮守として厳島神社がある。

田畑の中に住家が広がる宮之首地区。農耕に根差した
風景が今も残っている

 同所に先祖が移り住んで十二代目となる町議吉岡喜徳さん(68)に話を聞いた。意外にも「地名の由来を祖父や父母から詳しく聞いた覚えはない。妙な名前だなぁと思ったことはありましたが…」との答えだった。
 もともと、集落の中心は新田原基地の滑走路延長にあった。航空機の騒音が激しかったため1960年代、地区住民がそこから北へ700―800㍍集団移転し、現在に至っている。
 当時80戸以上あった世帯数は約40戸に減少し、歴史に詳しい土地の古老も散り散りになったという。

◇     ◇

 歴史好きという同所の農業津野仁志さん(56)は一つの自説を持っている。「首というのは、戦乱で多くの犠牲者が出たことに関係しているのかもしれない。不吉なこともあり、歴史の中にかき消されたのではないでしょうか」
 南北朝時代の騒乱期や、江戸時代前に同所で大きな戦いがあったことと、豊かな農地だったこの地区が軍事的な要衝であったことに着目したものだ。
 専門家の意見を聞いた。高鍋町在住の元県史編さん室長永井哲雄さん(71)は「地名は生活の中で必要として付けられる場合が多い」と説明する。その上で「それほど古くないことから、『宮』は厳島神社でなくほかの大きな神社を指しているのでは。『首』は入り口ということ。つまり神社領の入り口という意味でしょう」と話す。
 総合すると永井さんの説が現実的に思える。ただ、戦乱の世に、土地を守った人々を想起させる津野さんの説も捨てがたい。先人たちの生活は想像するしかないが、土を耕す姿は今も昔も変わらないのだろう。

5 トロントロン(川南町)

豊富なわき水流れる音由来

 町民から愛され、施設やイベント名に度々登場する「トロントロン」は町中心部に位置し、商店が立ち並ぶ町内一の繁華街。片仮名表記の地名は、響きが良い半面、奇異な感じも受ける。地名の由来は諸説あるようだが、水の音にまつわる話がほとんど。以前は湿地帯が広がっていたと聞くと納得する。使われ始めた時期も定かではない。現地を歩き、かつてのわき水流れる音と風景を思い浮かべてみた。

◇     ◇

 町観光協会が紹介するのは、江戸時代の参勤交代のエピソードを起因とする話と、西南の役の敗走劇説。同協会がJA尾鈴理・美容室前の交差点に1987(昭和六十二)年建てた石碑にはこう刻まれている。

商店が立ち並ぶトロントロン。わき水の名残は感じら
れない

 雑木林が茂り、くぼ地のため豊富なわき水が出ていた同所で、江戸へ行き来した大名たちが、水飲み場として休憩するようになった。水の音が「どろんどろん」と聞こえていたのが、いつの間にかその場所を示すようになり、さらに「トロントロン」という地名になったという。
 敗走劇説は、1877(明治十)年「西南の役」で敗れた西郷隆盛軍の分隊の話が由来。分隊が日向路を敗走する時、わき水でできた滝の音が、敗戦の心を和ますかのように「どろんどろん」と聞こえ、それがなまったとの説だ。

◇     ◇

 「これだけは譲れない」と西南の役敗走劇説に異議を唱えるのは、町長寿会連合会会長で、文芸誌「黒潮」の編集長を務める同町下野田、高尾日出夫さん(79)。
 高尾さんは「当時の文献や日記を見ると、薩摩軍は川南を一、二時間で通過している」と指摘。著書「川南の歴史散歩」には「薩摩軍の逃避行は、とても水の音をでるような余裕はなかった」と記す。その上で展開する持論はこうだ。
 川南には第二次大戦後まで松並木が残り、トロントロン周辺は「出水」の地名があるように、わき水が豊富な場所だった。「一日中水の音がしていた」と高尾さんは幼少時を振り返る。
 高鍋藩に長年支配されてきた歴史を背景に「川南に居ついた人々は貧しさの中で神や仏様、自然に対する敬虔けいけんな態度を持っていた」と高尾さん。この地ではぐくまれた豊かな情緒が、水音と松葉が風に鳴る音を地名としたのではないかと推測。西南の役以前から使われていたと主張する。
 トロントロンでは今、わき水の名残を感じるのは難しい。「みんな地名の上に乗っかって生活している」。高尾さんの言葉が耳に残った。

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