自己紹介note
みなさん、こんにちは。宮成なみ (@miyanarinami) です。
改めて、自己紹介をまとめてみます。
結節性動脈周囲炎。
これが私の病名です。
幼少の頃から元気いっぱいに過ごしていたのに、
突然、16歳のときに生まれつきの難病だとお医者さんに告げられました。
発病当時、8割の患者が5年以内に亡くなることから、両親は「娘さんは、20歳まで生きられないかもしれません」と言われていたそうです。
けれど、いま、私はとうに40を超えて、毎日を元気に楽しく過ごしています。
7年半の長かった闘病生活で私を支えてくれたのは、家族や友人と囲む楽しい食卓でした。
1分でも、1秒でも長く生きたい。
みんなと楽しい時間を過ごしていたい。
やりたいこともいっぱいあるし、まだ死ねない。
そんな想いで過ごした日々に、母や祖母はたくさんの知恵を授け、助けてくれました。
食べものは明日の未来を創るもの。
そんなふうにおもうんです。
食べものがつくるのは、体だけじゃないんだなあって。台所で母や祖母に学んだことは、料理のつくりかただけじゃなかったなっておもうのです。
「美味しいご飯をつくるには、4つのコツがあるとばい。お金か、時間か、手間か、知恵。どれか1つをかけたら良いと。
お金がなくても美味しいご飯がつくれるように、なみちゃんに体力がなくても、素敵な人生はつくれるよ。料理も夢も人生も、知恵ばかけて楽しく料理していくんよ」
台所で祖母が口癖のように言っていたその言葉は、私の根っこのようなものになっています。
レシピは、instagramにあげて、
noteでは、台所で祖母が教えてくれたことを
徒然と思い出しながら書いていこうと思います。
■ ■ ■
5歳から料理を始めた幼少期
私が5歳の時、父が起業をしました。
勤めていた会社を辞め、起業したのと同時に妹の妊娠が発覚。
起業したばかりの会社には、まだ信用はありません。経済的な余裕もなければ、妊娠、出産、乳飲み子と父の会社の経理の仕事を抱える母に時間的余裕もありません。そこで、母は長女だった私に、料理を教えることにしたのだそうです。
5歳の私に母が最初に教えてくれたのは、お米のとぎ方・炊き方。そしてお味噌汁とおかずの温め方でした。まずは、火に慣れること、火傷をしないように火の扱い方を知ることから始まりました。慣れたら次は包丁の使い方。そしてお味噌汁の作り方。
私は、あまり器用ではなくて、人が1度でできることでも、3度、4度と繰り返さないとできない子だったけれど、母も祖母も根気よく辛抱強く教えてくれました。
たくさん、たくさん失敗したし、火傷もしたけど、「上手にできたね」って褒められるのがとても嬉しくて、プラスチックの人参ではなく、本物の人参を使って、私は、リアルおままごとな幼少期を過ごしました。
食といのちと向き合った闘病生活
高校受験も無事に済み、仲の良い友達とも同じクラスになりました。好きな人のことやテストの点数で一喜一憂する楽しい高校生活がスタートしました。
そして誕生日を迎えばかりの16歳の冬。
私にある人生の転機がやってきました。
それが現代の医学では治すことのできない難病、結節性動脈周囲炎 (けっせつせい・どうみゃく・しゅういえん)の発症でした。今から30年近く前の話のことです。両親は私のいないところに呼ばれ、「発症から5年以内に8割の方が亡くなる病気なので、娘さんは20歳まで生きられないかもしれません」と言われたそうです。
当時はまだ治療法もデータも圧倒的に不足している病気でした。
そして主治医の先生は、私にこう言いました。
「現代の医学で、なみちゃんの病気を治すことはできないけれど、唯一…ひとつだけ進行を遅らせる方法があります。それが、投薬治療と食事療法 です。食と言う可能性にかけてみませんか?」と。
先生の言っていることが全然、頭のなかにはいってきません。
それまでの私はと言えば、風邪と虫歯でしか、病院に行ったことがなくて、健康はあって当たり前のことで。
平凡で、ありふれた普通の女の子だった自分が嫌いでした。なんの変哲もない取り柄もないそんな自分が嫌でした。けれど、普通の女子高生だった私は、元気に走り回ることのできていた私は、どんなにすばらしかったことだろう。
どんなに後悔してもしきれなくて、あのころの自分に戻りたくても戻れなくて、その頃の私の夢は、「普通の女子高生になること」ただそれだけでした。
普通の恋がしたい。
普通に学校にいきたい。
普通に生活できるようになりたい。
それさえも手の届かない遠い夢のように感じました。
先生は、なにも言えなくなってる私に、続けて、「なみちゃんの体が治るように治療をがんばる。なみちゃんは自分の体が治るように食事を頑張る。ご両親も助けてくれる。1人じゃないから。みんなで頑張ってみませんか?」と言いました。
白い病棟で一生過ごすのか。
食という可能性にかけてみるのか。
選択の余地はありませんでした。
食べものは明日の未来を創るもの。
美味しいの笑顔のために。
1年弱の闘病生活を終えた私の体は、病気の進行と共に私の手足はマッチ棒のように細くなり、目はくぼみ、頬はこけてお腹だけぽっこり膨らむ餓鬼のような体になりました。
肌はレンガのように乾いて、40歳の母より、16歳の私のほうが老化が進んでいるかのようでした。身長162㎝に体重は38㎏しかなくて。乾いた肌はひび割れて、血が滲みウロコのようになりました。
退院して一番ショックだったのは、何度お願いしても頑なに母が見せてくれようとしなかった食事療法の専門書を見たとき、『食事療法』だと思っていたその字は、『食餌療法』と書かれていたことでした。
病気になったら、美味しくなくなっても、お腹が減って、ひもじくても、ガリガリのフラフラのままでも、しかたがないと諦めることはできませんでした。
わたしは初めてのことでわからないことばかり。本をよみ、勉強しては栄養士さんに相談しに行き、少しでも美味しく、少しでも元気になれるようにと知恵を絞り、祖母や母とともに料理をつくる日々を過ごしました。
7年半、毎日、まいにち。
自宅療養中のわたしの世界は、ガレージにある小さな庭とキッチンだけでした。
本当に、ごはんで元気を作ろうと思ったら、小さな苗木が月日を重ね、ゆっくりと年輪を描いていくように、本当にゆっくりとしたスピードでしかないけれど、私の乾いた肌が少しずつ潤い、やせ細った肢体は女性らしいふくよかな肉付きを取り戻し始めました。
今日、食べた大根も、人参も、トマトもきゅうりも、肉も魚も卵も、お味噌汁に入ってる味噌も豆腐もすべてはいのちで、いのちが、私と言う名の命を作っているんだなぁ。
食べたモノが血になり、肉になり、私と言う体を作っているんだ。
今日食べたごはんが私の命になって、私の明日を未来を創るんだ。
こんなにガリガリになっていても、フラフラで起き上がれなくても、体は生きようと頑張ってるのが分かるんです。ボキボキに折れかけている心とは裏腹に、体は生にしがみついて懸命に生きようとしているってわかるんです。本当に微々たる変化なんだけれども、ゆっくりと着実に回復している確かな実感がある。少しずつ綺麗になっていく腕を眺めながら、そんな風に思いました。
ごはんってすごいなぁ。
ただ単純にそう思いました。
生きていけるかどうかもわからなくて、日常生活さえままならないのに、漠然と、「ごはんってすごいなぁ。料理ってすごいなぁ。ばあちゃんが私にしてくれたことをいつか私ができる人になりたいなぁ。」そんな小さな夢が生まれました。
台所で学んだ夢の叶え方。
誰もが、私が社会復帰できるなんて思っていなかったんです。
16歳で発病して、17歳で退院して、その1年後の18歳で透析になるだろう、そして20歳まで生きられない…。そんな状況下で、私が退院するとき、両親が呼び出されて、お医者さんに言われたそうです。
「社会復帰も難しいかと思います。くれぐれも無理をさせないでください。10年、10年間、透析をせずに持ちこたえることができたら、その先の望みはあります」と。
医療は日進月歩で進化し続けるから、10年経てば、飛躍的に治療法が確立される。選択肢が増える。だから望みは捨てるな、と先生は最後の最後まで、私に希望を与えてくれました。
1年持たないと言われていた私の腎臓は、13年間頑張ってくれました。その間に、7年半かけて社会復帰を果たし、半ば父親の反対を押し切って福岡市に出て1人暮らしも始めました。
普通にご飯が食べられて、普通に友達と遊べて、普通に恋をして、結婚や離婚もしたし、発病してなかったら、出会っていない友達や味わうことのできなかった経験がありました。
病棟の白いベッドの片隅で、遠い遠い夢だと思っていた当たり前のことが当たり前にできる生活です。
そして長年、夢見続けてきた料理の仕事をしています。
私は、5歳の頃に母にフライパンを持たせられ、料理を教えてもらったけれど、台所で母から学んだことは、「ごはんの作り方」だけではなかったように思うのです。
美味しいごはんを作る4つのコツ
自宅療養中、祖母は繰り返し何度も言ってくれました。
「美味しいご飯を作るには、4つのコツがあるとばい。
お金か、手間か、時間か、知恵。どれか1つをかけたら良いと。
お金がなくても美味しいご飯は作れるように、
なみちゃんに体力なくても素晴らしい人生は作れるよ。
料理も夢も人生も、今あるもので工夫してつくっていくんよ」
闘病生活の間、母は何度も言ってくれました。
「できないことをメソメソ悲しむより、できることを楽しみなさい。
できないことは、できないでいい。
これならできそうって思うことを1つでもいい。やり続けなさい。
できることを積み重ねていけば、できることは増えるから。
10年後の未来は絶対に変わってるから」
本当に、やったのはありふれた地味で小さなことばかり。
けれど、16歳の時に未来に怯え、白い病棟で膝を抱えていた少女には想像のつかない10年後が待っていました。
終わりに
最後までお読み頂きありがとうございます。
これまでの人生、病気は私にいろんなことを教え与えてくれました。
ある友人が言ってくれたことがあるんです。
「なみちゃん、すべては偶然ではなく必然だよ」って。
出会いも別れも出来事も。
すべては偶然ではなくて必然。
磁石で引き寄せられるかのように、出会いも出来事も小さな偶然を積み重ねて、そのときの自分に必要な人やことがやってきて、役目を終えると別れや終わりがやってくるのだというのです。
その時は苦しくて、悲しくて、つらくってなんで私ばっかりこんな目に合わなきゃいけないの?って神様さえも恨んだり、逃げ出したりすることもありました。
けれど、振り返ってみれば、ああ、あのことはこのために必要だったんだなってパズルのピースがハマる日がやってくる。すべては今の私を作るために必要なことだっだんだなって。病気に感謝できるほど、まだまだ人間できてないので、ちくしょーと思うこともありますが、あの闘病生活が、自宅療養の日々が、今の私を作ってくれているんだなぁと思います。
7年半の自宅療養中、ほぼ自宅から出ることができませんでした。ガレージの小さな庭と家の中で私にできたことは、料理と本を読むことくらい。けれど、ただ、栄養管理されただけのご飯をたべていただけだったら、私はこんなに元気になれなかったんじゃないのかな?と思うのです。
ごはんは、体をつくる栄養源だけじゃなくて、あれ食べたいの楽しみや、好きな人と囲う食卓や楽しい会話は、「また明日頑張ろう」と思える活力源になるからです。
知恵をかけラクして美味しいごはんをつくる。
私は基本的に体力、免疫がありません。すぐに疲れて横にならないと1日持たないから時間もありません。
ないない尽くしの中で、3食のご飯づくりに毎日追われながら、料理を頑張ってるのに、こんどは料理で疲れ果てて悪循環にハマってしまう。健康に気遣って頑張ってたはずなのに身も心も疲労困憊してまう。
だから、必要だったんです。
「冷蔵庫にあるもので、簡単にすぐできて、ラクして美味しくて健康になれるごはん」が。誰でも無理なく、気負わず、頑張りすぎず、ごはんを作り続けられる工夫です。
努力と工夫は違います。
努力は、骨を折り、労を尽くして成し遂げること。
工夫は、あれこれと考え、良い方法を得ようとすること。その考えついたうまい方法を言います。
つまり、工夫とは、苦なくやれる方法を作り出すこと。「苦労してやることが当たり前」という方程式そのものを変えちゃうことなのです。
恐怖や不安、苦痛や悲しみは瞬発力にはなるけれど、長続きしません。正しい食は数日間は頑張れるけど、一生やれっていうのはちょっと厳しい。
そりゃ頑張りましたけど、なんだかんだ言って、闘病生活の7年半、「あれもダメ、これもダメ」ってダメダメ言われるの、やっぱりきつかったですもん。笑
継続力を生み出すのは、楽しさや嬉しさ、わくわくする快楽を伴うものだとおもうから、今日も祖母の教えを胸に抱き、美味しく楽しくラクして元気になれるレシピを考えて、発信していきたいなと思っています。
note不慣れすぎて、使いこなせてませんが、応援していただけたら嬉しいです。
みやなりなみ。