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フライヤー

大して意味はないんだけど何となくこだわってしまう日常のささいな習慣に、わら半紙の新聞広告を広げた上で爪を切って包んで捨てる、というものがあります。一色刷りのわら半紙じゃないとしっくり来ない。カラーでツルツルした広告紙の折れて硬くて尖った感触より、くしゃっと丸めたわら半紙の柔らかさにどこかほっとします。けど今もし親と住んでなかったら家に新聞がある生活してないと思うし、もはや前時代的な感覚なんだろうな。

昭和だった子供時代は、片面刷りの新聞広告はそのまま捨てるのは勿体ないと切ってメモに使っていたし、平成に入ってからも、父親がプログラマーの仕事をしてたので意味不明なアルファベットや数字の羅列がプリントアウトされている裏の白い紙が家に常備されていて、メモ用紙はわざわざ買うようなもんじゃないという生活感情が刷り込まれてます。故に、ライブを観に行くと帰り際にフライヤーを山ほどもらったりするけど、裏が白いフライヤーがどうも捨てられなくて、曲を作ったり、カバー曲の歌詞をひとまず書き留めたりするときにちょいちょい使っているのですが、ちりも積もればの言葉通り、すぐには使い切れないくらいの在庫がありまして、今ざっと見てみたら古いもので2011年でした。古い順に使ってないからとは言え、ちょっとした驚きです。

最後にライブハウスに足を運んでから4か月以上経ちました。去年の秋に15年続けた仕事を辞めて、考えてみると、15年間で仕事以外に最も重きを置いていたのは、ライブを観に行くこと及びライブで演奏することだったかもしれません。ライブに頻繁に足を運ぶようになる以前は、なるべく都会には出たくないし人混みも苦手だったので、コロナ禍でライブハウスに行かなくなっても、引きこもり生活もそれなりに楽しめていたから気づくのがだいぶ遅くなった(大抵のことに人より時間がかかる)。

ライブを企画したりフライヤーを作成したことのある方にはわかってもらえると思うのですが、フライヤーを沢山配ったとして、それを見て足を運んでくれる人の数は本当にちょっぴりだったりするけれど、出演者をはじめ複数の人が関わってライブを行うからには少しでも多くの人に来てほしい、そんなわずかな可能性に賭けてるわけじゃないですか。人が集うと楽しいことも面倒もいっぱいあって、何でわざわざこんなことしてるんだろとうんざりする瞬間もあったり、ライブが終わってみるとやっぱりやってよかったと思ったり。私の日常にとってはただのメモ用紙に過ぎないフライヤーの一枚一枚が、ライブやライブハウスが好きで繋がった人たちがいつかのどこかで確かに行ったライブの残滓であって、また以前と同じようにライブを行える時が来てもフライヤー文化は同じようには戻らないかもしれないな、そんなふうに考えたら、手元の紙の束が不意に貴重なもののように思えて、ちょっとだけ胸が熱くなりました。

ライブやライブハウスに関する個人的な思いの丈を言葉にしたいなという気が今してるので、次回に続くかもしれません。

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