正しさが何かはわからないけど。
アンナチュナルで書きたいことはいっぱいあるけども。
生きるため、それを選択したミコトの食べるシーンが多いことは印象的である。
食べることは生きること。
そこで浮かぶ風景を一度は感じたことがあるのが生きているものの務めなのかもしれない。そう思うくらいに。
長男の出産時は朝に陣痛がきて、産院に行き、お昼はオムライスだった。
痛みで食べられない私の代わりに、付き添いの夫が食べた。
次男の出産は日曜日の朝方。日曜日には焼肉を食べようねって言って寝た朝に産まれた。助産院での出産だったので助産師さんが握ってくれた梅干し入りお握りの美味しさを今でも覚えている。
出産を終え、喜びかけつけた実家の両親と共に、焼肉屋ランチに行った夫から報告メール含めて。ここで焼肉行くかと歯軋りするくらい印象深いエピソードとして記憶に残っている。
最初の妊娠は。
実家近くの病院で里帰り出産に備えての妊婦検診で胎児の心音確認出来ないと言われて帰宅して食べた冷やし中華。
夫への電話。5回目で繋がった電話。
「ごめんね」という私の言葉に会議を途中退室して駆けつけた夫と食べた冷やし中華。
ハム、胡瓜、錦糸卵に紅生姜。
泣きながら食べた冷やし中華の麺はゴムみたいだ、なんてこともなく、淡々と食べた。母が作ったものはなんでも美味しい。子どものときから食べてきた味がする。
こんな時でも食べるわたし、って奴に泣けてくるけど冷やし中華は確かに味がしていつもと同じく美味しかったのだ。
***
食べることは生きること。
なんて当たり前なこの言葉。
食べることは生きること。
いま、こうやって書き手にも読み手にもなれるわたしたちも、この行為を意識的か無意識的かはさておき、その積み重ねでこの交差する場所で出会っている。
好きな人が好きといってくれて、一緒に居続けている。
その事実に感動を覚えよなんていわない。
けれど、幸せを因数分解していくとたどり着ける地点ってのは、そこの近くにあるんじゃないかっても思うのだ。
小さかった頃、小学生くらいのこと。
眩しいくらいの青空、市営のプールや図書館に自転車を走らせていたとき。
急に激しい雨が降り出しても。15分くらい雨宿りしてたら嘘みたいにまた青空が戻ってくる。
安心して今度は家までペダルを漕ぐ。
今はどうだろう。
ゲリラ豪雨ですって呼ばれる雨雲は1時間、いや2時間は空に居続けて雷雨とともに当たりを轟かせる。
温暖化、亜熱帯気候、そうねそうだよ、きっとね。
それでも変わらないこと。
食べることは生きること。
「なんで美味しいんだろう、こんなときに」
だって生きてるんだもん。それが生き続けるものの務めなんだもん。
そう思って、ハラミ肉を噛み締める。
「こんな時だから食べるんです」
ほんとうの意味で絶望したことなんてあるのかしら。
絶望だって感じたとしても、そんな暇があったら美味しいもの食べて寝たらいいんだ。
そうやって生きてきた、これからもきっと生きていく。
お結びでもお握りでもどちらでもどうぞ。
そんな表記の揺れなんてしらない。
食べたら血となり肉となる。
頭ではなく身体で食べたらいいんだ。
そう思いながら、ビールを飲み干すんだ。
雨上がりの空のもと歩く。
スマホを構える人の視線の先にある虹。「今日はラッキーだね」そうやって歩く。
暗く重い考えが頭を支配する日ってのもあるだろう。それだって、ほらこうやって虹を見れて微かにでも動く心よ。
ものすごい速さで気持ちも流れ去っていく。
「虹、綺麗だね」
「虹の根元に行ってみたいね」
そうやって交わした会話の記憶だけを残して。
どこか遠いところからやってきたような、ものすごく近いところから感じるようなそんな気持ちをもてあましながら虹を眺めたって気持ちだけが残る。
そう思うとなんだか泣けてくる。
くっきり見えた虹はなんだか、宝物のようで、忘れないでいようと思うそばから消えていくから、ただそこに立ち尽くしてしまう。
これを宝物っていうのなら、きっと希望って呼ぼのかもしれない。そう思って足を進める。
そうやって生きていくんだ、これからもきっと。
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