一人に慣れること
半世紀以上生きていると一人の行動も多くなる。
若いころは一人で食事をしていると「あの人は友達がいないのね」と思われる。
そんなことを思われるのが嫌で一人の食事は避けてきた。いつも気を使い誰かの顔色を窺い、窮屈な思いもしてきた。
そうかと思えば、誰かにマウントされて嫌になりマウントされたのならこちらも・・・と躍起になったこともあったな。
要するにあの頃の私は誰かに振り回されてきたのだった。
誰かの言葉に惑わされ、誰かの発した思いに感化され自分を見失い、自分自身が何をしたかったのまで忘れてしまっていたのだ。
このままでは情けないので、自分自身を分析してみた。
すると、子どもの頃の私が垣間見えた。
都市の離れた三姉妹の末っ子である私は、小さいころから母親の愛情を独り占めしていたのかもしれない。自分としては無意識のうちに「お母さん、お母さん」と言って甘えてきたのだから、姉たちのその時の思いは知る由もないのだが。
それは大人になってから知らされることになるが、それでも私自身はいつも独り占めしていたわけじゃなく姉たちが怒られている間に割り込み、知らぬふりで母親に甘えていたのだ。ごく普通に。
それが姉たちにとっては「あんたばっかり」となり、やっかみを買うようになる。
だが、そこで母親が言ったのは「この子は一番最後に生まれてきたのだから、一緒に過ごした時間は短いのよ」という言葉だ。
確かに、先に生まれてきた姉たちは時間的に言えば、私よりも母と過ごした時間は確実に長い。私が赤ん坊に頃は私は祖母に預けて4人で遊びに行ったことも私は大人になって知った。
そう、楽しそうに写る写真に私はいなかったのだ。もう生まれているはずだったのに。なぜここに自分がいないのかなんて気にもしてなかったけど、心の奥底深く、潜在意識に組み込まれた「置いてきぼり」の感覚がずっと自分を取り巻いていた。
なぜ?自分だけ置いて行かれたのか。特に意味はなかったと思う。例えば小さい子供だから連れていくと大変だから・・・とか、祖母が一人になるからさみしくないように・・・とか理由は些細なことだろう
だけど、小さなころの私にとっては重大問題で、母親から引き離されることがどんなにさみしかったか。
厳格な父から逃げるのも母のところだったから、私自身の「逃げ場」になっていたことは間違いない。母が年老いてからは、私がどうにかしなくてはと思いつつも姉たちの目にどう映るかが怖くて、何もできなかった。ただただ言われるがままに応答し、自分のことで精いっぱいだとその場えを離れることも多かった。
自分のやったことが果たして正しかったのか、それがわからずに誰彼構わず答えを求めて問いを立てた。そんな時代を何年か過ごしていた。
いつしか私は「誰かの承認」がないと生きれなくなっていた。
さみしいから誰かといるというのは、共依存であり自分自身を生きることにならないかもしれない。
それに気づかずに過ごして年月は自分にとって「経験」になってよかったと思えるのか?
それは死ぬときにわかることだろう。
母親とのこと、家族のことを深堀すれば今後の生きるテーマに近づけるかもしれないと思ったが、まだまだ根深いものがありそうだ。
お互いの自立があってこそ、楽しい時間が過ごせると今では思う。だけど、それに気が付くのに時間がかかりすぎた。もう半世紀以上経ってしまったが今からでも遅くない。
これからは、自分自身の自立と自律をテーマに死ぬまで生き続けようと思う。そしてそれに欠かせないのが「一人時間」だ。
周りに振り回されることなく、自分自身を律していける「一人時間」のすすめ。
マウントを取られることも無く、煩わしい人間関係に悩まされることも無い。あえて孤独になれというのではない。私もどちらかというとさみしがりやなので、いつも誰かとつながっていたかった。
でも誰かとつながっているときは、自分と離れていることが多く、今までの経験の中で判断し相手を見下していることもあった。それに気が付いた自分がとても嫌だった。
それは自分とつながっていないから、自分を認めるのに誰かの自分に対する評価を待っていた。誰からも評価を受けなかったときは落ち込みも激しく冷静に考えれば「何でこんなことで悩んでいるのだ?」になることも、答えが出ないまま、時間だけが無情にすぎていく。
そんな繰り返しだ。
自分自身と繋がり、軸を持って生きれると人生は変わる
今までは「誰かと一緒」でなければ生きてこれなかった私も、強制的に一人になった。これはきっと「一人で生きてみなさい」というお告げかもしれない。
そう思えば何でもでき。誰の目を気にすることなく、自分の好きなように生きてみる、そうすれば今までとは違った人生になるだろう。
「一人に慣れること」は自分に対する問で「一人になれますか?」ということかもしれない。
一人になることで、見えてくるものがある
他人との距離を保って生きることで、力まず心地よく過ごすことができるかもしれない。
心の友は離れていてもつながっているのだから。
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