変わらない日々を送っていると、ふと「これでよいのか?」という疑問が生まれることはだれしもあるだろう。 だが、選択を間違えたとしてもその選択が自分自身で行ったことであれば、それは誰の責任でもない自分の責任だ。 今の生活が不満なのか? そんな自問自答を繰り返している間に時間は過ぎていく。考えないようにしたとしても心の中に沸いている「小さな違和感」は日に日に大きくなっていくことだろう。 その平凡な毎日を送っていると、突然来る「選択」に躊躇することがある。 よく言う「チャンスを掴
半世紀以上生きていると一人の行動も多くなる。 若いころは一人で食事をしていると「あの人は友達がいないのね」と思われる。 そんなことを思われるのが嫌で一人の食事は避けてきた。いつも気を使い誰かの顔色を窺い、窮屈な思いもしてきた。 そうかと思えば、誰かにマウントされて嫌になりマウントされたのならこちらも・・・と躍起になったこともあったな。 要するにあの頃の私は誰かに振り回されてきたのだった。 誰かの言葉に惑わされ、誰かの発した思いに感化され自分を見失い、自分自身が何をしたかった
人間の思考を可視化することは不可能と思われていましたが、最先端の技術では言語が不自由な人のために様々なツールが生まれいて不可能ではないと証明されました。 ほら、「犬の気持ち」とか「猫の気持ち」がわかるようになったりして書籍化もされていますよね。それはまた違うことかもしれませんが・・・ ただ、日常生活を送るうえでまだまだ相手の気持ちが目に見えてわかるってことは無いようで、コミュニケーションにも心配りが必要です。 人間関係で悩むことも昔とあまり変わっていないのではないかと思い
比較的動きがあるほうが好きな50代後半 これまで生きてきた中でこれほど「思ったことが叶う」ということを実感したことがあったでしょうか。 昔から欲しいものを手に入れることや、自分が思った通りに事を運ばせるのがうまい人って、クラスに一人はいたような。 でもそれは、何かしらのテクニック(例えば言葉巧みに人を操るとか)があってこそだと思っていたのですが、半世紀以上生きてきた私が最近感じることは「思うことで叶う」のが早いってこと。 思うことで願いが叶うことは何度も経験してきました。
自分の言った言葉で誰か傷つく人がいるとそれは「凶器」になる 誰しも一度は経験があるのではないだろうか 自分が思ってもみなかったように捉えられ、自分の言葉で誰かが知らず知らずに傷ついていたとか 後になってわかることだから、分かった時点ではどうすることもできないのだけれど。 誰も傷つけたくないのはみんな一緒だけど、相手によっては「なぜそんな捉え方をする?」と言わんばかりに誤解をしている人もいるし、自分でもなぜそんなことを言ったのかわからなくなる場面も出てくる。 まだ、相手
うちの夫は「超」男脳だ。一つのことしかできないし、あまり細かいことにこだわらない。だからこそ、冷静なのだが時折私に対して冷たいと思われるような暴言を吐いてくる。 私にとってはそれが苦痛でならなかったが、その暴言(と思っていた言葉)は実は私の痛いところ(核心)を突いてくることがわかり、少し見方が変わった時期があった。 女性で多いのは「感情」で流されること。その時の「好き」とか「嫌い」とか「やりたい」とか「やりたくない」とかその時の感情でクオリティが上がったり下がったりする。
欲深さは人間であるためのものなのか、目の前にあるものを手に取るとまた次のものが欲しくなる。それが人間だ。野生の動物は空腹の時だけ狩に出かけ、満腹になれば大人しく自然の中で生きている。そうして命の連鎖を保っている。 どの動物も、植物も地球上の生き物すべてにおいて、バランスがありそのバランスを保つように命が繋がっている。すなわち増えすぎると淘汰されるということだ。 それは生きているもの、生物だけじゃなく地球も同じなのではないかと思うことがある。地球を破壊しようとするものを淘汰
時々、自分のしたことに後悔するのは誰しもがあると思うけど、私の場合過去の自分がなぜそんなことをしたのかわからず、ただただ自分を責める傾向がある。 周りを見れば「良い人」ばかりで自分はなぜその中にいて、なぜ自分は「良い人」になれないのか。 それは見る方向が違っているからだと気がついた時、視点を変えて見ることにした。客観的に自分を見ることで何かが変わると思っていた。そしてもちろん見る角度を変えれば見える景色が変わってくるので、疑問に対する答えは出るのだろう。 しかし、そこで
とても感じの良い人に会うと気持ちが高揚するけど、世の中はバランスが取れているんだなと思うことが多々ある。 とても良い人に会って、気分が上がって、調子に乗って落ち込むと次はそんな人に出会う。現実は自分が引き寄せてる!ならばいつも良い気分でいよう!そうすれば出会う人が変わるんだ!
私がこのnoteを書き始めたのは「匿名」で何かを書きたかったからで、思いの丈や赤裸々な感情をぶつけたいと思ったからだ。しかしヘタレな私は感情をぶつけることすらできないでいることに気がついた。 ネットの中は無法地帯でTwitterや2チャンネルなどは匿名でバンバン言いたいことを言っている人もいる。だけど、自分にとってそれがしたかったわけじゃなく、とにかく心中を吐露したかっただけなのにそれすらできなくなっていた。勝手に誰も見ていなくても「いい子ちゃん」になりたがっていたようだ。
ネットの中でいろんなことが言われていて、「こうすれば良い」「こうしないとダメだ」「これからはこんな時代だ」って言うことに振り回されがち。大切なのは本当に自分が納得して行動しているかって事で、振り回されていると自分を見失う。そして、それは誰かのせいになり責任転嫁が始まるんだ。
めっちゃラッキー! これまで生きてきた中で何度思ったことか。数えきれない「ラッキー」に恵まれていると最近まで思っていて、周りの人から「ラッキーな人ね」と言われることも悪い気はしなかった。だが、ある時ふと気がついた。 「ラッキーな人ね」といっている人の言葉の中に「嫌味」が含まれているということに。子供みたいに素直に受け取っていた私はそれに気がついてこっぱずかしく、また自分の浅はかさに穴があったら入りたい状況にもなった。 ラッキーというニュアンスは良い意味にも使われるが、使い
毎日生きていく中で、同じことの繰り返しだとしても気づきはあるもので、同じことを繰り返していると自分では思っていても、案外全く違う結果になることもある。 一日生活をすれば、その一日に起こったことが自分の中に積み重なり自分の厚みとなり経験となる。何も起こらない日はない。誰とも出逢わない日はあっても、生きているとずっと寝ていない限り、何かが目に入ってくる。何かが聞こえてくる。感覚は視覚や聴覚よりももっと多くのものを感じている。 現実を直視していた時期は自分の目に見えるもの、耳に
本当に突然に、昔の男から連絡が来た。 思い出すのは彼と過ごした日々だが、あの頃は何故か2人でお日様の下を歩くことはなかった。 付き合い始めた頃はそれをあまり考えていなかったが、そうなればなるほど不思議なくらい盛り上がるもので。 いつしか、密かに会うことがお互いの気持ちを昂らせていき、まともに恋愛することができなくなっていた。 今我に帰ると、なんであんな恋愛していたのか、そもそもあれは恋愛だったのか? 私が知らないだけで、相手には家庭があったのか?などと想像を巡らせていた。
決してメンタルが強いわけじゃない その場を和ませるという、子供の頃からの癖が出てるだけだ。 もうやめよ、こんな生活。自分がすり減っていくだけの生活はもういらない。 誰かを楽しませるのではなく、自分を楽しませよう。 考えてみれば酷い言葉を投げつける相手も、もしかすると弱い人間かも。
会社でもある程度の年代になると次の世代へ向けてのサポートが必要になってくる。自分がやる方が早いとわかっていても、自分の技を若い世代に継承していくことを優先させなくてはいけない時もある。 どの年代でも、それは起こっている。例えば毎年新卒を迎える会社だと新人で入った次の年には自分は先輩になり、新人に教えることも仕事の一つにもなる。 そんなことを繰り返しながら人と人はつながっていくのだなと思うのだが、それは会社だけでなく家庭の中でもあり、社会全体でもある。例えば家庭の中だと親は