エッセイ やり過ぎと特性
やり過ぎと特性
子供の頃によく言われた言葉がある。ゲームは一日一時間。九十年代後半から二千年はじめに両親と交わした約束事だ。一日一時間以上のゲームは頭が悪くなると教え込まれ、周りの子に聞いても家で言われていたみたいだ。親同士で子供のプレイ時間を確認し、伝え合っていたこともある。今では考えられないことだ。今日言われていることは長時間のゲームが脳には良くないということだが、一時間くらいたいしたことではないようだ。
だが、何事もやりすぎは良くないようで、それによる弊害もある。ゲームは勿論のこと、睡眠時間を削って勉学に勤しむことや誰か特定の人と一緒にいすぎること、スマホを手離さないことなどがある。勉強し過ぎて頭がおかしくならないか、運動し過ぎて体が傷まないか。教育と強育の境目を考えてしまう。それは、個々人の特性や育ってきた環境次第でもある。
皆が薄々気付いていることだが、能力値や思考(嗜好)傾向ほどシビアに人の特性を分類するものはない。竣敏な運動神経と力強い肉体、運動IQがあれば、アスリートとして活躍しやすいだろう。緻密で回転が速く学術的な思考が苦にならなければ、学術的な分野で成功しやすいだろう。ほとんどのケースにおいて、適切な努力が行われれば確率は上がる。そういった考えを持っているが、特に文学という分野においては必ずしもそうではないような気がしている。けれど何事にも素養や感性、環境、取り組み方が大きく左右するのは否定できない。
受け取る側の話をすれば、その国の文化や気質、価値観、時代等が変われば、評価の仕方も大きく異なる。ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』は世界文学の最高傑作のひとつと言われている、中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説だ。当初はアメリカで刊行してくれる会社を探しても見つけられなく、フランスで出版されるに至った。傑作や猥褻な作品と評価は分かれ、多くの国で発禁処分になっている。
国内で見れば、村上春樹の文章にも好き嫌いが分かれる。こちらに至っては同じ国で同じ言葉にも関わらず。その理由を研究するのは大変興味深いが、研究結果にはさして大きな発見はないと思う。
私も大して取り組んでなどいないが、詩、小説、エッセイはそれぞれに使う思考も感覚も異なっていると思う。私はどれに対しても未完成のようなレベルなのでとても主観的になるのだが、書く題材によって使われる領域は違う。ある程度の基礎は必要なのだろうが、そこから先は時代や好き嫌い、男女の性差、生活環境、読む者に作用する感覚なのだと思う。何でもできる人もいれば、その分野しかできない歪な特性の人もいる。日常生活で培われてきた何かが生きる時もある。何がどう作用するか分からないものだと思う。個人的な経験を言えば、詩を書いていたら小説を読む力が上がったことや右奥歯が痛い時に詩を書く力が向上したことが挙げられる。
それに、やり過ぎることで変わることもあるだろうし、潰れてしまったり良い部分が消えてしまったりすることもあると思う。不謹慎であるが、精神的に何かが狂えば書けるものもあるのかもしれない。何が良くて何が悪いかではなく、複数の領域が組み合わさって関わってくるのだろう。
私自身に言えることは、「詩は一日一作品まで」だ。調子が良ければピンキリで二作品は詩のようなものをつくれる。だが、次の日に体調が悪くなるのでやめることにしている。これも不思議な話で、もしかすると文学には私の想像以上に広い部分が総動員されているのかもしれない。何事においてもやり過ぎは良くない。また、作品の好き嫌いやレベルのみでなくて、もっと見なければならない部分がこの世界にはあると分かってはいたが、最近調子を崩し考えるきっかけとなった。もっとメカニズムのようなものを意識したいものである。精進したい。