詩 英雄に関して
英雄に関して
彼の顔には涙が流れていた。ある誤算が起こったようだ。だがこれも、良いのだろう。想いが思い出になった人生なのだから、彼にとってはこの上ない幸せだ。
どこかで英雄が生まれようとしていた。妊婦の胎内から世界が産み落とされようとしている。夜が深まってからだ。女は世界を産んだ。どこからか世界がすり替えられようとしている。隣の女の手が伸びる。世界を受け取り、夜の闇へと消えた。一瞬のことだった。
世界と運命について男たちは話していた。世界と運命は結びつき、二つの包括的存在の距離間隔が時代の明暗を左右するのだと。酒を呑んで出した結論を女は相手にしないので、仕方なくこの時代の夜空に呟くのだった。
彼の手にあるのは、過去から届いた手紙だった。それが時を語るものだと気が付いたのは、彼という人間を思い出した時なのだろうと眠っていた理知は告げた。彼の角々しい文字を見て、俺は生きていたのだなと、微睡みと情熱の境でやさしく息を吐きだした。ここはどこだろう。白い部屋にいた。いつなのだろうか、手紙に書かれている23572687という日付のようなコードを見据えた。差出人の名前は彼のものだった。また深い眠りを抱いて目を閉じた。世界が巻き戻されていった。
誰でも良かったのかもしれない。いいえ、彼以外にはいなかったのだろう。世界には幾つもの適切な説が必要だった。善と悪を共存させる為かもしれない。男は不幸だ。英雄とは、不幸を纏い遠くへと導く者と女たちは解釈した。世界は常に焦がれている、ここでない此処へと謳い続ける。
あれから歳月が経った。生きとし生ける者にとって世界の誤算はいつも正しく機能する。それは男たちが議論の果てに掴んだ世界の記憶である。世界に人格を擁するのかを究明することが今後の課題であった。世界に人格があればどんなに困窮した場所でも幸福は存在するから大切なことだった。
ある島がある。この島から大帝国が生まれた。一人の軍神がいるようだ。彼の亡き後の時代は運命が何とかするのだろう。しなくてもいい。これは、彼の最初の話だと聞いている。世界は彼に最期を突きつけた。ある時代に産まれることは他を殺戮することを課せられる。たった一人、名も知らぬ島民百人ほどに囲まれていた。聞いたことのない言語が呪咀のように唱えられていた。足元には大きな牛が転がっていた。生きることは闘争を意味した。勝利とは世界の奇跡に対面することだ。史実に残る蛮勇が暴れ出そうとしている。伝説が疼いて、幕が開けた。誰もが圧倒的な力の前では美しくいられた。
革命の声がする。どこかの国で火山が噴火した。ある文明が散っていった。誰にも関係のない話だと思う。これは、強風が吹き荒ぶ崖に咲く一輪の花のような話なのだから。彼は深く深く眠りに落ちた。世界の為に彼の死は隠されるのだろう。世界には英雄が必要である。そんな時代が何度でも訪れる。英雄の役割は一つでいい。大きな背中であり続けることだ。
運命の光に屈折を加え反射を施させる、それだけで人は奇跡に手を伸ばすことがある。美しい誤算は地平を傾ければいい。どこかで、隣の女が手を伸ばしている。夜の闇がわらう。