秀吉と二つの大地震
秀吉と天正地震・伏見地震
天正地震は1586年1月18日に発生した。本願寺顕如の家臣宇野主水によれば「四半時過」、興福寺の多聞院には「亥下刻」と細かく記されている。。当時の大名時計は最小の刻みで12分以下はないが、寺院は細かい。寺院は香を焚き、燃焼速度は正確で、これを利用して香の焼ける長さで時間を知る「香時計」があった。
この震災で山内一豊夫妻の子供を失った。長浜城は当時の技術では築城困難と思われた軟弱地盤に建てられていた。地震により地盤は沈み、城下町ごと崩壊した。大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が飲み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰したという。
その日は寒かった。山内一豊の妻が捨て子を見つけた。某家臣の子供だという噂もあったが、それでも山内夫妻は実子のように慈しみ深く育てた。初めは亡くなった娘の供養になると思ったが、次第に情が湧いてきて、一豊は「俺には実子がない、丁度いい、養子にしようと」まで言い出した。
しかし家中の手前、甥がいるのに養子に跡を継がせるわけにいかず、その子を京都の寺に入れ学問をさせた。彼は高名な学問僧となり、土佐藩で学問を伝授した。また山崎闇斎という大学者を育て、彼はのちに会津藩主・保科正之に仕えた。土佐・会津という幕末を動かした両藩の学問水準の高さは山内夫妻の戦災孤児支援と無関係ではない。
天正地震は二ヶ月後に迫っていた10万の秀吉軍による4万の家康軍に対する総攻撃を回避させた。地震発生時、関白秀吉は家康討伐の準備を投げ出して大坂に逃げ帰ったのだった。
1596年9月5日の伏見地震の時、秀吉は裸で逃げ、かろうじて潰屋の下に命を助かった。伏見城は台所一棟を残して全壊した。
この時、秀吉は朝鮮半島で明と交戦中で、その皇帝の使者を迎え入れていた。紫禁城に劣らないほどの軍勢と美女を揃え、使者に見せて度肝を抜くために、二の丸に三百人から七百人もの美女を押し込めていたが、地震のためことごとく圧死してしまった。大きな武家屋敷には奉公人や女中を住まわせる長屋がある。それが地震の時に真っ先に倒れるのだった。
この時代、簡易な建物にも瓦が普及しつつあったが、柱の骨組みの強度がそれに追いついていたなかった可能性がある。それが悲劇を生んだ。
また天皇の御所であれば大工の技術が高いため、瓦をわざと釘で止めていなかった。そのため地震発生があっても、御対屋・女御御座敷・御台所の瓦はことごとく落ち、建物は倒れなかった。
しかし一般家屋は瓦屋根のために建物が倒壊した。
伏見御城も瓦葺きを御禁制にする御触れを出したという。この時再建された建物を見れば、天守や櫓など耐火性が求められる軍事施設は瓦葺だが、御殿は檜皮葺かこけら葺き、長屋は板葺だった。耐震化を徹底した様子が窺える。
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