集団の封鎖性と行き過ぎたいじめ

 日本の職場は「場」つまり、異なる「資格」を持つ人たちから成り立っている。その不安定な構造を克服するためには、集団意識を養成させなくてはならない。そのためにはエモーショナルな結びつきが求められ、その高揚感を維持するために、人間の接触を維持する必要が出てくる。社会集団となるには一体感を持たせること、集団内の個々人を結ぶ内部組織を作る必要が生じる。

 一時すたれていた会社の運動会や社歌を作るといった取り組みが見直されているのは、このエモーショナルな結びつきを求めてのことと言える。

 こうした全面的な個々人の集団参加が基盤になって、閉ざされた世界を形成し、その結果として強い孤立性ができあがる。そうすることで、枠の中にある資格の異なるもの同士の距離を縮めていく。

 日本において、人間関係の強弱は、実際の接触の長さ、激しさに比例しがちだ。日本においては、いかなる社会集団でも「新入り」がヒエラルキーの最下層に置かれているのはそういったことが関係している。


 ある保護施設の園長によると、一度ヤクザの世界を味わった子供は、何度連れ戻しても、その世界に戻っていってしまうという。親分は子分をたいていかわいがる。施設などでは得られない理解と愛を注がれるという。

 昔の子分は親分にかわいがられていると実感できるから、親分にどんなひどいことを言われても我慢できた。しかしサラリーマンでそういうポストにいるだけの上司は、いい上司であればいいけど、意地が悪かったり、仲が良くない場合は、封鎖的な空間だから、ひどいことになる。下の人が逃げられず、弱い人は一層苦しんでしまう。

 福島から来た子のいじめの報道を見ると、一人対一人の関係というよりは、新しく入ってきたものを皆が寄ってたかっていじめているように映る。この光景は、場の先輩・後輩関係が大きな意味を持つという意味で日本的と言える。


 新参者と同様に日本においてステータスが低いのが専門職だ。たとえばチベットは山の険しいところで、行くにはチベット専門のタクシードライバーを雇わなくてはならない。高く険しい山を上り、山で車が故障したら、自分で直さなくてはならないきつい仕事。日本であれば3K労働といって低く見られるが、現地では、その運転手は特殊技能を持つ専門家として尊重され、厚遇される。ロンドンのタクシー運転手の地位も高かったが、専門職という発想があるかどうかに由来している。


 日本人にとって仲間外れは厳しい制裁の一つ。通常小集団の中では、些細な情報までが伝達される。お互いに伝達する義務があるかのように。もし成員がそれを怠ると非難を受けることになり、知らされなかった人はのけ者にされたと受け止める。

 著しい不利益を被るようになったら外に出ればいいと考えるかもしれないが、長期間にわたって醸成された仲間意識を基盤としているために、よそに移るのには困難が伴う。いずれの小集団も強い封鎖性を持っているため、途中から出るのも入るのも容易ではない。そのため村八分や学校のいじめがいじめられた側に与える影響は深刻なものがある。


 つまり日本の集団には「封鎖性」と「それがために行き過ぎてしまう」という問題がある。

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