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感染者の隔離政策

 黒死病期にヨーロッパの医師たちがペストの病因として理解していたのは、主に大気の腐敗であった。その原因は、地震や火山の噴火説など様々だが、どの場合でも、それを人為的に食い止めることはできない。それゆえこうした観点からでは、ペストに対して医師が具体的な対策を立てられるのはたかだか食餌療法や養生訓以外なかった。

 しかし病原体という概念が確立されていない時代として、隔離という感染の経路を経つための手段は、なかなか公共のものとはならなかった。金持ちの中には、屋敷を閉鎖して身を守ろうとする人々もいた。ギ・ド・ショリアクはアヴィニョンの教皇クレメンス六世に教皇庁の館に引き籠もって外界との連絡や接触を断つように進言した。しかしこうした私的な断片的な措置が、公共的な戦略、社会的な制度に移行するためには、それなりの長い時間が必要であった。この時代の医師たちにもそうした方策の策定に熱心であったようには見られなかった。

 しかし時間の経過とともに隔離という概念は少しずつ制度化され始めた。ヴェネツィアではペスト流行地域から渡来する船の入港を差し止める措置を取り、ミラノではペスト患者を出した家を閉鎖して立ち入り禁止にしたり、病人を郊外に運び出し、街中には置かないという決定を下した。

 歴史最初の公式の法的な隔離政策は、1374年にレッジオのベルナーボ公の手で公布されたもので厳しい内容であった。この年はすでに黒死病の大流行が一応ほぼ収束したと言ってよい時期でもある。

 隔離という概念が制度化されたということについての問題点の一つは、医師たちの不明と怠慢もさることながら、流行の最盛期にはそれが実際上不可能であったとも言える。

 もう一つは、こうした隔離が病気の蔓延を防止するという名目における患者の遺棄にも近い内容を持っていたという問題もある。ハンセン氏病患者への対応を想起すればわかりやすい。しかもこうした社会制度は、しばしばその無法な適用が社会的被差別者に及ぶという深刻な弊害をも持っていた。

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