【ナツノカナタ】「寂しさ」に感染している【プレイ感想】
メタフィクション + SF + 能動的ニヒリズム哲学
あるいはノンフィクションとも言えるし、無理にジャンル付けせずとも良い
ままならない日々を送ることに、無意味さを感じてしまう
他者と繋がりたい欲求が、感情のバグのように思える
自己否定の中に共感が入り混じる、現実の旅のお話
01. 【ナツノカナタ】について
―—終わってしまった世界の夏、少女はあてのない旅をする。
パンデミックにより崩壊した世界
違う世界の間で繋がる通話
一人、行くあてのない旅をする少女ナツノと過ごす物語
02. 感想(ネタバレ含)
きっかけは亡くなった祖母の遺品整理で見つけた古いコンピューター
電源を入れてデータを開くと、どういうわけか少女と通話が繋がっていた
話を聞いているうちに判明するのは、お互いが違う世界にいるということ
パンデミックとは何なのか、旅をする過程で世界の謎が見えてくる
終末系にしては珍しく、生き抜くこと自体に関しては注視されていない
登場人物が理不尽な酷い目にあったり、悪人が出てくることもない
生きることに対する理由や自身の在り様について考えることが多い
言うなれば、パンデミックをきっかけに始まった自分探しの旅だと感じた
読み進めるうえでは視点の違いが理解の妨げになりやすかった
ナツノと「話す」のは『私』だが、物語上では『彼』という認識
現実で【ナツノカナタ】を起動したプレイヤーである『私』
祖母の遺品を探し、古いコンピュータでナツノと話す『彼』
現実と似た環境でパンデミックが発生した世界にいる『ナツノ』
ナツノが旅をする過程で出会う人や判明した事柄に対してナツノ自身が深く思案して向き合うため、見ている側としてできることは少ない
散策の提案と話し相手になることぐらいだが、少しは力になれただろうか
さよなら
どんな原理で、どんな信号を受信しているのかはわからない
それでもナツノたちに語りかけようとしている誰かはたぶん……
ナツノ世界でのパンデミックが発生した要因として
ナツノと外の世界との対話が関係していると疑われたシーン
もともと世界は異常な状態ではあったけれども
コンピュータの外から干渉する私(彼)はイレギュラーな存在
状況証拠も揃い、私がナツノと対話することで
ナツノ世界でのパンデミックを助長しているようにも思えた
干渉しないことでパンデミック収束を図るのだが、寂しくもある
「さよなら」のお願いは断れず、ナツノに別れの言葉を話すのは辛かった
「寂しさ」に感染している
私たちと、あなたたちとでは……
「寂しさ」について―——あまりにも、違う
祖母の古いコンピュータはネットワークに繋がっていない
もう一度ナツノと話し、お互いの状況を整理したシーン
彼がいる外の世界は私ともナツノともまるで違っていた
血の繋がりに関わらず、同意があれば家族になれる社会制度
仮想世界が一般的になり、個人でも手軽に作れる技術レベル
効率を求めて社会をつくった結果かもしれない
あるいは個の進化を続けて垣根を越えた果てかもしれない
ナツノの世界と同じように、誰とでも繋がっていたい現代もまた歪で
価値観や物事の考え方が違っているものの、どちらも否定はできなかった
意味なんかない
生きてることに、意味なんかないよ
わたしが生まれてきたことに、理由なんかない
世界が生まれたことに意味はない、すべてただの偶然
私とナツノに仮想世界を消去する選択が与えられたシーン
「寂しさ」を感じない祖母が仮想世界をつくったこと
ナツノたちが過剰な「寂しさ」を感じること、パンデミックが起きたこと
「寂しさ」がすべての原因なのだとイツカが言ったように
私もこれが「物語」だと思って、意味や理由を見出そうとしていた
私に選択肢が与えられた場面でも、世界を消そうとは思わなかった
思わなかったけれども、ナツノが思うほど前向きな気持ちではなかった
ナツノが世界ではなくナツノ自身の中に何かを見出そうとして
世界が無意味だとしても、それでもと前を向く強さが眩しかった
03. まとめ
【ナツノカナタ】を知るにあたってまず感じたことは
考え方を詠むもので答えを読むものではない、ということ
ナツノへの共感や理解についても、受け手側の思案を求められる
仮想世界の中にいる存在を「人間」と認知できるか
「物語」の結論を否定した物語性を受容できるか
そのうえで、「物語」のメタとして用意されていたのは
受け手側が事象に関係性を見出し、意味を求めてしまうこと
【ナツノカナタ】のすべてに理由があるとするならば、
私たちの世界でもすべてに繋がりがあって然るべき
人生で起きる出来事に意味や理由があるのが正しいとも言える
悲しいことにも理由があると、自分が納得する意味を見出しがちだが
例え意味がなかったとしても、無価値ではないのだと肯定してあげたい
私たち自身、世界はそこまで整然としてはいないし
答えが存在しないこともあると感じ取れていると思う
世界の在り様を認めてしまったが故に、ナツノと私は同じ「人間」だと
このコンピュータの【ナツノカナタ】で生きていると思えてならない
自分が知覚したものが世界を作っていくという前向きな気付きが、
【ナツノカナタ】の哲学でありメッセージでもあると感じた