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親になる資格などは誰にもない
親にならないほうがいい人間は確かにいるけれども、親になる資格がない人間はいないと思う。資格云々などという話をし始めたら、人類はとっくに絶滅しているだろう。わたしは性悪説を信じる派閥である。
言うまでもなく、わたしにも「親の資格」などというたいそれたものはない。わたしはただ自分が子どもを欲しいと思ったから行動し、授かって産むことができ、結果として親という立場になり得たというだけに過ぎない。
このように、あらゆる子どもは、親の都合とエゴで産まれてくるとわたしは信じている。産んでくれなんて頼んでねーよ!という反抗期の子どもの言い草は、なかなかどうして核心を突いているというわけだ。
少し話は逸れるが、わたしがちゃんちゃらおかしいと思う反出生主義も優生思想も、親の資格があるだのないだのという主張ときわめて近い地場に咲く花である。机上の空論は嫌いではないが、こういった主義主張はあまりにも実態に則していないというか、理論を頭の中で弄びすぎだ。それに、人間を高尚なものと捉えすぎているようにも思う。たかが動物の一種が粋がりなさんな、と鼻白んでしまうのだった。
親の資格の話に戻るが、もし親になることが免許制だったとしたらわたしは確実にまだ親ではなかっただろう。落第する理由ならいくらでも挙げられる。心療内科通院経験あり、発達グレー、人や動物の面倒を見るのが嫌い、短気、独善的、器が小さい、自己中心的、無駄にプライドが高い。……これ以上書くといやになりそうだから止めるが、まあ、これだけでじゅうぶんだろう。自分がりっぱな人間でないことはわかっている。そんな事実はどうでもよく、わたしは自分が欲しかったから作ろうと思った。ただそれだけだ。
自分が子どもを産んでみても、わたしはみんなが子どもを持つべきだとか、子どもがいたほうが幸せだとか、そんなことはこれっぽっちも思えなかった。独身も夫婦も子持ちも、それぞれに味わう幸福の種類が違うだけで、みんな幸せになれる。事実、わたしは独り身でも、夫と二人でも幸せだった。
ただわたしが怒りを覚えるのは、自分が今の生活を手放すのが面倒だったり妥協できなかったりで子どもを持つことを億劫がっている「だけ」(ここが重要なので鉤括弧を付ける)の人が、いかにも賢ぶって、「私は・俺は、自分がそんな素晴らしい人間ではないときちんとわきまえているから子どもは作らない」とか、「こんな不景気な世の中に産まれてきたらかわいそうだから作らない」などと、さも産む人間は阿呆だというような口ぶりで語ることなのだ。
べつに自分と違う立場の人を尊重できなくてもいい。だが、自分を肯定するために相手を下げるなと言いたい。本気でそう思っているなら百歩譲って構わないが、単に方便のためにこうした屁理屈をこねくり回して相手を下に置いて安心しようとする人間が、わたしは大嫌いである。似たような例で、結婚していない人を腐すために、「だから結婚できないんだ」などとのたまう人間も嫌いである。結婚はできるできないではなく、するかしないかだと言ったのは作家の山田詠美さんだったが、わたしもそう思う。
いまのわたしは、これまでとはちがった不安を抱えて生きている。だからこういう、聞かれてもいないことを書いてしまうのだ。おろかだ。