鏡には訊かない
秋になると毎年髪を染めたくなって、でも実行に至らずに来たのですが、今年はやりました。ひさしぶりの染髪。茶色にしていたのは高校二年までで、そのとき以来なので八年ぶり。
そこで面白かったのは、初めて行った美容院の美容師さんがびっくりするくらいのイケメンで、でも普通に話せたことでした。いやもう、進歩進歩、大進歩。
というのも、わたしは異性に対して男子中学生的な部分を捨てきれないので、すんごい綺麗だったり、あるいは好みの顔立ちのひとと相対すると(男女問わず)、どうしても意識してしまって吃ったり挙動が不審になったりしていたのだけど、きょう、拍子抜けするくらいフツーだった。
これは、ものすごく穿った見方をすれば老化の第一歩かもしれない。図々しいというか、面の皮が厚くなってきたというか、とにかく、恥ずかしさが薄れてきた。人並みはずれて美しくても、ちゃんと人としてみれるようになったというか。
たぶん、それまでは美というのは異形で、人であって人でないもの、というように無意識に捉えていたのだと思う。それがなくなった、という感じ。なんでなくなったのかはわからないけど。やっぱり加齢だろうか? 店員さんと話すのも、知らない人と世間話するのもそこまで苦でなくなってきたし、それの一種かもしれない。
だからか、綺麗なひとと話していても、へんにへりくだることも、卑下することもなくなった。そんなふうにふるまわれても相手も反応にこまるだろうし。わたしは誰かをこまらせることを忌むべき大罪のように思っているので(この「忌むべき大罪」といういいまわしは、江國香織さんの短編『噴水の天使』の中で、「三人ともおそばをふやかしてしまうことを忌むべき大罪のように思っているので(※注:細かい部分は違うかもしれない)」という一節があって、それがしみついていてたまに使いたくなる)、とにかく誰かをこまらせたくない、と息巻いている。
いま、推しの誰かと話す機会に恵まれても、動転して何も話せなくなる、とか、目も合わせられない、とか、そういうことはまずないな、と今日、ふいに確信した。つまらんことを口走る、という可能性は大いにあるが。
わたしも綺麗になりたいなあ。世界でいちばんじゃなくてもいいから、自分の満足いく外見になりたい。折しも季節は秋。ダイエットに脱毛に染髪、サロントリートメント、まつエク、コルギ、ホワイトニング、骨盤矯正。やりたいことは山とある。どんどん他人の手を借ります。めざせ美容の秋。食欲に、今年こそ勝ちたいので。