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生活とプライドを守ることができる観光

 旅行シーズン。全国旅行支援もあって日本中旅行客であふれているようだ。
 沖縄にも多くの観光客が訪れ、飛行機も多くが満席。すっかりコロナの頃を忘れたような感じだ。先日週末の京都も歩けないくらいの人集りだとSNSで話題になっていた。

 最近目立ってきたのは、やはり外国人観光客である。今後減ることはないだろう。
 コロナ禍の2年あまりは、飛行機も空席が目立ち、ホテルはどこも空室があり簡単に予約が取れた。日常生活においても交通渋滞がほぼなくなった時期もあった。そんな状況に私は慣れてしまって、最近の「どこに行っても人が多い」という状況に適応できないでいる。しかし、考えるまでもなく、「元に戻っただけ」なのだ。早く元の感覚を戻すしかない。

 そう思う一方で、残念なこともある。

 コロナ前の日本の観光地のいくつかは、明らかにいわゆるオーバーツーリズムであった。
例えば、京都で行われる学会に参加したくても宿が取れなくて断念したということもある。京都市周辺だけでなく、近隣の滋賀や大阪、兵庫のホテルも満室だったのである。その頃、沖縄の宮古島も同じだった。
 京都や宮古島で、やむなく一つの部屋に複数の人が泊まるゲストハウスをとったこともあったが、次第に私は屋根のある宿が取れただけ幸運だと思うようになっていく。

 宿以外にも、交通量や人の集中の度合いなど、観光地が本来持っている能力以上の外来者が訪れるリスクは深刻であったが、その議論がようやく始まった直後にコロナ禍によって観光客が激減してしまった。

 しかし、先日の韓国ソウル梨泰院の悲しい事故でその事が思い出されたのではないだろうか。他人ごとではない。先日の京都の写真を見てもわかるように、日本のどこかで起きても不思議はないのである。具体的にどのように対策すべきか。入域制限をすべきではないのか。そう言った議論が十分ではないままに、観光客は増加し続けている。

 実は2018年に観光庁の「持続可能な観光推進本部」において「持続可能な観光先進国に向けて」のとりまとめがなされ、「『オーバーツーリズム』が広く発生するには至っていないと言える」と結論付けている。これは私の感覚からは大きくかけ離れていた。

 日本の観光に関して思うのはそれだけではない。実は、このエッセイの草稿は、大阪から関西空港に向かう電車の中で、スマホを使って書いた。満員電車の中で席は取れたものの。とてもパソコンを広げられるような状況ではなかったからだ。

 書きながら次第に少し腹が立ってきた。

 日本の出入り口の一つである関西空港行きの電車が、どうして生活路線と共用なのであろうか。生活者は「観光客のせいでよけいに混雑している」とどうしても思ってしまう。それは、私が日々沖縄で思っていることだ。だから、満員電車の中、大きな荷物を抱えた空港利用者は肩身が狭い。もちろん各地から向かう直通のリムジンバスもあるし、特急もある。しかし、大阪梅田から乗れる直通電車はこれだけだし、先月利用したリムジンバスは大渋滞で危うく飛行機に乗り遅れるところだったのだ。

 コロナ禍以前は、そういう状況に私は何の疑問も持たなかった。しかし、東京オリンピックを契機に日本は観光立国を目指すようになったのならば、「観光」について私たちはもっと深く考え議論する必要があるのではないか。これまでは「いかに観光客を増やすか」「いかに観光客に満足してもらえるか」の議論に偏りすぎていたと思う。 

 沖縄に住んでいると、お金を落としてくれる観光客をありがたいと思うと同じくらいに苦々しい思いをする時もある。かなり大袈裟に言うと、なんだか魂まで売っているような卑屈な気持ちになってしまうのだ。我が家に土足で踏み込まれたような気分に。

 外国人観光客はますます増えるだろう。
 私たちは、収益をあげつつも、生活とプライドを守る観光をつくっていかなくてはならない。

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