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50年前はあなたたちも無名だったはず
SONYの創業者の一人、盛田昭夫氏のお話です。
1955年、盛田たちは日本初の
トランジスタ・ラジオを開発し、
その2年後にはさらにコンパクトサイズに
したポケッタブル・ラジオを売り出す。
白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫といった家電の
三種の神器が隆盛を極めている時期に、
あえてトランジスタ・ラジオで
切り込んでいったのである。
国内だけに留まらず、
トランジスタ・ラジオは
アメリカでも発売された。
世界中のどの国でも発音しやすいように、
字数も少なくなるようにと、
SONYに社名を変更したのもこの時だ。
アメリカでは大手メーカーであるブローバ社
から10万台の注文を受けるが、
ブローバ社の商標で売るという
条件がついた。
ソニーを世界に通用するブランドに成長させたい。
メイド・イン・ジャパンの底力を見せつけてやりたい。
そうした気持ちのほうが勝ったのだ。
盛田はよほど悔しかったのだろう。
ブローバー社代表相手に
「50年前はあなたたちも無名だったはず。
われわれはその一歩を踏み出したところだ」
と、啖呵を切ったという。
その言葉ははったりで終わらなかった。
盛田はソニーをメイド・イン・ジャパンの
品質を保証する世界的な企業へと発展
させていったのである。
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奇跡をつかんだ失敗の顚末
ライフ・リサーチ・プロジェクト 編
青春出版社より
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「日本再建」という言葉を経営の趣旨として
戦後まもなくスタートした東京通信工業、
これが世界のSONYの原点でした。
「メイド・イン・ジャパン=粗悪品」と
言われた所から、
NYマンハッタン五番街にショールームを
開くまでの経緯は、
血の滲むような努力と、
悔しさを乗り越えたからなのだと思います。
当時、アメリカでともに戦う日本人は、
NYマンハッタン五番街に掲げられた
「日の丸」の国旗を見て、奮い立ち、
涙を流す者までいたそうです。
もし、SONYが自社のことだけを
考えていたならば、
10万台もの注文を喜んで受けたでしょう。
しかし、目的が違った・・・
「日本再建」
その断ったときというのは、
決して楽なときではなかったけれども、
SONYの名前じゃなきゃ、
メイド・イン・ジャパンじゃなければ駄目だったのです。
盛田昭夫さんはその後もこの時の
判断のことを
「人生の中でもベストな判断のひとつだった」
と答えていたそうです。
男としても尊敬します。
1998年アメリカハリー社の消費者調査で、
SONYはブランドネーム第1位に選ばれました。
盛田氏は米TIME誌の選ぶ
「20世紀に影響力のあった経済人」、
「20世紀の100人」
にそれぞれ日本人で唯一選ばれています。
そして盛田氏は、
あのスティーブ・ジョブス氏にも
大きな影響を与えたそうです。
ジョブス氏が生涯愛用していた
黒のタートルネックの秘話からもうかがえます。
彼がソニーの工場を視察した際、
ユニフォーム(同じジャンパー)を着て働く
工員たちを見て盛田氏に質問をしました。
すると盛田氏は「絆だよ」と言い、
その答えに感動し、
ソニーユニフォームをデザインした
三宅一生氏にわざわざデザインを依頼し、
持ち帰ります。
しかしアップル社でのユニフォーム導入に
社員は猛反対・・・断念しました。
そこでジョブス氏は、
自分だけのユニフォームとして三宅一誠氏が
デザインした黒のタートルネックを
着るようになり、
生涯それを愛用していたのです。
すみません、少し話がそれてしまいました。
最後に盛田氏の言葉をご紹介して終わります。
死ぬときに「俺は大事な人生を、あんなところでムダに過ごしてしまったな」と思ったとしたら、これほど不幸なことはない。
やはり、「俺はソニーで働けて幸せだった」と思って死ぬようにしてあげることが、社員に対する最大の務めだと思う。
この会社で働かせてもらっていることに
心から感謝します。
今日もお付き合いいただきありがとうございます。
今日も頑張っていきましょう♪
水曜日だけど、金陽でした(^^
【沖縄の営業マン宮城の日々感じていることブログ】
(ブログ連続投稿315日目)2023.5.31
(※あくまでも宮城の個人的な感想、意見です。あしからずm(__)m)