”自由に生きなければならない時代”には、何が必要か?
こんにちは。半人前コーチ@赤坂です。
本日は午前中ミーティングからのー、カフェで作業しています。
午後からは打ち合わせがあるので、がんばります。
この前の日曜日、うちのミニバスを卒業し、中学で関東に引っ越した高校3年生の子が、わざわざ仙台に来てくれました。来年大学でどうするかについて、進路の相談とかがありました。教員免許が取れる大学(今いる高校と同じ法人)に進む予定らしいのですが、話を聞くと「教員になりたいという意志が強くあるわけではない」と言ってました。
また、その日の夜、私が指導するゼミ生から卒論の相談があると連絡があり、夕飯を食べながら相談に乗りました。卒論の相談の手前で就職活動の話になったのですが、「自分がやりたいことではないのですが、内定をもらったので保険の会社に決めました」と、話していました。
私はどちらの決定についても、100%の賛同はできませんでした。その決定で、数年後の自分に意味のある選択となっているのかどうか。まだやりたいことが見つかっていないのは別に構わないのですが(私もやりたいことが決まったのは、30歳くらいですし)、そこを考えることなく、闘うこともなく、楽な選択をしているのではないか。その部分に、納得がいかなかったのです。そして、楽をした先に、ワクワクする未来が待っているのか。楽をした先に、自分を好きになることができるのか。彼らの人生を考えたときに、そこにすごく不安を感じたわけです。
そんなことを考えているときに、とても刺激的な記事を見つけました。安逹裕哉さんという方が書かれた記事で、タイトルが、
【いつの間にか「好きなことをしていい」時代から、「好きなことをしないと豊かになれない」時代に変わった。】という記事でした。
そこの記事には、このように書かれています。
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「好きを仕事にしないと豊かになれない」世界は、「主体的に動く人だけが豊かになれる」という、残酷な世界だ。自分で選びとらない限り、何も手に入らない世界。
「考えたくねえ」
「受け身でいいだろ」
「決められねえ」
「正解を教えろ」
「リスクを取りたくねえ」
が、貧しさの象徴になった世界。これは、一片たりとも、人に優しくない。
「自由に生きられる」は、いつの間にか「自由に生きねばならない」に変わっていた。
<中略>
だから現代人にとって最も重要な教養は「自由の使い方」だ。
すなわち自らの人生をどうマネジメントするか。
意思決定をどのように行うか。
どう試すか。
何を学習するか。
そういった「自由」の使い方こそが、長い人生を豊かに過ごすための鍵になる。もちろん「自由」は軋轢を生む。
とくに「自由」を使いこなせる人々と、使いこなせない人々の断絶は、絶望的なほど広がる可能性がある。
<中略>
個人的には、「好きを仕事に」というのは、若干ショートカットされた言い方だと感じている。
単に「好きなこと」をしているだけでは、仕事にならないからだ。仕事はマーケットが必要で、マーケットを見る目のない人は、「好きを仕事に」は実現できない。
したがって、自由を謳歌するための条件は、マーケティング能力、すなわち
・市場に自らの能力やプロダクトを晒す
・市場とマッチしていない場合は、学習・修正を行う
の2点を獲得する必要がある。
その上で「自由の使い方」を教養として身につければ、まあ、一生困らないのではないだろうか、と思う。
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非常に勉強になる記事でした。
我が大学は、8月に試験があるのですが、そこのレポートにてある実験を行いました。27人が受講しているその講義にて、最終課題を
・この講義で学んだことが何か、という題でレポートを提出してください。
・形式は、パワーポイント/動画/手書きなど形式自由。あなたが一番伝えやすい、且つこちらが見たいと思うものを提出してください。
というような内容にしました。
要は、なんでもいいですよと。自由に作ってくださいねと。そうしたところ、学生からいろんなカタチで提出がありました。
・手書きで絵本にして提出したもの
・メッセージを込めて、ラップの曲をつくって提出したもの
・雑誌の記事のように編集してつくってきたもの
・教員のモノマネをして、講義している動画を送ってきたもの
など、様々なものがあり、見ていても面白かったです。
ただ、少し不安になったこともありました。「形式自由」「一番伝えやすいカタチで」と伝えていたにも関わらず、何の工夫もなくワードのレポート形式で送った来た学生が約半数ほどいました。
私はその約半数の学生に、上記の記事で言うところの”自由に生きられない学生”を感じたのです。考えた上でその形式を選択したのなら良いのですが、何も疑うこともなく、その自分の世界の中の常識が正しいと思っていることに、変化の激しい社会で生きていけるのかどうかという不安を感じたのです。
とくに高校までの教育においては、多くが正解を導く作業とそのためのインプットが最重視されてきたはずです。受験という一つの登竜門に向けて、偏差値やテストの点数という1つの価値観のみで評価されるような学校生活を送ってきたはずです。それは今の教育システムでは仕方のないことかもしれません。
ただし社会に出ると、問題など用意されていないのです。極論すると、正解が用意されている問題を解く力なんて、全く必要ないのです。高校までに訓練された力というものの大部分は、むしろ今の世の中を生きていくためには、弊害となることの方が多いのかもしれません。
世界の時価総額上位企業も、多くの会社がここ2、30年で出来た会社です。1990年代に大企業と言われた会社が、大きな赤字を出している時代です。これから自治体でも、財政破綻をするところも増えてくるでしょう。つまり、30年前に正解だったことは、今の社会では正解では無いことが多いと思います。特にここ数年、そしてさらにこの先はその変化のスピードはより加速していくでしょう。
にも関わらず、教育システムは大きくは変化は見られません。就職活動の常識も、変わっていないところが多く見受けられます。そこで教わったことは、本当に正しいのでしょうか?もうちょっと言い換えると、社会で生きていくために必要なことを、教育されてきたのでしょうか?
この変化が激しい社会では、教わった正解はすぐに正解ではなくなる可能性が高いのです。では、その変化に応じて問いや解を出していく力、つまり【自由に生きていくために必要な力】は、どんな力なのでしょうか?
ここについては、まだまだ議論や深耕の余地があると思いますが、私が思っているのは2つの力です。
端的にいうと、【意志】と【行動力】、そして【失敗から学ぶ力】です。
1つ目の「意志」とは、言い換えれば「目標を創る力」だと思っています。そして、目標を創る力を得るためには、2つの要素が必要だと思っています。
第1の要素は、<良い出会い>です。自分が、こんな人になりたい!とか、こんなことをやりたい!と思えるような出会いです。そして、なぜそうなりたいと思うのか、それをやりたいと思うのかを”言語化”できれば、目標に輪郭が見えてくるようになると思います。目標をより具体的にイメージできるようになるでしょう。
第2の要素は、<良い経験>です。良いと思うもの、ワクワクする人とかに、会いに行く力です。積極的に得ようとする姿勢です。それが経験を増やすことに繋がります。そしてその経験をするための行動が、良い出会いにも繋がり、目標の明確化に寄与すると思うのです。
どちらも非常に近しい内容で、【意志】と【行動力】は隣接した力だと思っていて、意志があるかこそ行動に移せるのだと思いますし、その意志を自分の中で確かなものにしていくには、様々な経験(行動)が必要だと思っています。
そして、行動をすると失敗することも必ず出てきます。意志をもって行動しても、意志のとおりに進まないことの方が90%くらいあるでしょう。その時に、そこで行動を止めることなく、失敗から学び次に進む力が必要です。失敗という経験を遠ざけられた現代の若者には、この最後の【失敗から学ぶ力】が著しく低いと思います。
失敗は恥ずかしいことではないのです。むしろ、次の行動にすぐ動けば、その失敗は「経験」に変わるのです。成功の最も対極にある事象は、失敗ではなく、「そこで止めてしまうこと」。つまり「何もしないこと」です。
にも関わらず、失敗したくないという意向が強いために、挑戦もせず失敗もしない、つまり何もしないという選択をするという若者が多いのです。(前述のレポートも、その1例かと思います。)これが、「自由に生きる力」を手に入れる人生から、最も対極にある選択になってしまっていると感じるのです。
このように感じることも近年多いため、私は自分が教えているバスケットチームやゼミ生には、
・失敗してもいいから、行動すること(行動しないことが一番良くないということ)
・自分で「問い」を考えてみること(自分やチームに何が足りないか)
を重視し、自分でなりたい自分を獲得していって欲しいと思っています。
※ 過去記事「教えないという教育」https://note.mu/miyagi_junior/n/nddcbd57a994b
前述の関東に引っ越した高校生に、今なんの仕事にでも就いていい。自由に選んでいいって言われたら、どんな仕事をする?って聞いたところ、こんな回答が来ました。
「自由に選んでいいって言われると、何も選べなくっちゃいます。」
自分の人生を会社や組織のものではなく、自分のモノに出来るような力を、手に入れてほしいというのが、私の願いです。
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