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谷口ジロー (『坊っちゃん』の時代)(原作:関川夏央)

(週刊漫画アクション 1986年12月~1987年3月掲載)

<1998年手塚治虫文化賞 大賞受賞作品>
(選考委員評)
原作との共同作業の「豊かさ」を、理想的な形で現実のものとし続けてきた営為に対して深く敬意を表します。(大月隆寛氏)
この作品の中で提示されている「明治文学賞」は、現代文学論としても圧倒的に素晴らしく、たくさんの発見に満ちている。
まさに「文化」としてのマンガの到達点。(高橋源一郎氏)

この作品は膨大な数の資料を基に描かれている。
出来れば、「坊っちゃん」(夏目漱石)を読んだ上で読んで欲しい作品だ。

関川夏央氏の文章
<わたしたちはいかにして『坊っちゃんの時代』を制作することになったか>より一部抜粋
明治は激動の時代であった。
明治人は現代人よりもある意味では多忙であったはずだ。
明治末期に日本では近代の感性が形成され、それはいくつかの激震を経ても現代人の中に抜きがたく残っている。
われわれの悩みの大半をすでに明治人は味わっている。
れわれはほとんど(その本質的な部分では少しも)新しくない。
それを知らないのはただ不勉強のゆえんである、というのがわたしの考えであり、見通しであった。
また、ナショナリズム、徳目、人品、「恥を知る」など、本来日本文化の核心をなしていたはずの言葉を惜しみ、それらがまだ昨日していた時代を描き出したいという強い欲望にもかられた。
そこでわたしは「坊っちゃん」を素材として選び、それがどのように発想され、構築されたかを虚構の土台として国家と個人の目的が急速に乖離しはじめた明治末年を、そして悩みつつも毅然たる明治人を描こうと試みた。

この作品には夏目漱石を初めとして明治時代の知識人の多くが登場する。
森鴎外・森田草平・国木田独歩・石川啄木・平塚明子(らいてう)伊藤左千夫・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)東条英機・島崎藤村・柳田国男・山県有朋・徳富蘆花・・・などなど・・・

酒癖が悪く、脅迫神経症で小心者の漱石。
この苦悩する知識人である漱石を表情豊かに見事なまでに表現したのが谷口ジローの画力だ。

当然のことながら、漫画は絵とストーリーとで出来ている。
どちらかひとつだけが良くてもいけない。
両者が素晴らしくて、しかもお互いに高めあう作用があって初めて素晴らしい作品になるのだ。

<漫画=低俗なもの>と、お考えの方にこの作品を手にとって欲しいと思う。
しかし、そういう方はこの作品をパラパラっとめくっただけで、子供向きではないことぐらいは理解出来るだろうが、本質的な素晴らしさを感じ取ることなくパタンと本を閉じて、心の中で呟くかもしれない。
「・・・、ふん、所詮マンガはマンガ、ばかばかしい。文章を絵で説明しただけの、まあ所謂頭の良くない連中が読む読み物だろう。」

それは大きな間違いである。
確かに「世界名作」と言われるようなものをマンガで描いてるものもある。
それは、原作は文章で書いてるのだから、文章を絵で説明しただけのものだと言われても仕方が無い。
それらは残念ながらレベルの低いものが多いし、例え上手な漫画家が描いたとしても、原作以上に素晴らしい作品になっているものはごくわずかかもしれない。

そういうものとこの作品を一緒にして欲しくない。

まず冒頭部分を見て欲しい。
見開きいっぱいに描かれた住宅の屋根、屋根、屋根・・・
一体ここはどこかと思って見ると、
「明治三十八年十一月 東京市本郷区千駄木五十七番地」とある。
「チチチチチ」「チュンチュン」などという雀の鳴き声らしきものも聞こえてくる。
屋根瓦は一枚一枚丁寧に描かれてあって、よく見ると汚れている瓦、ずれている瓦、実にリアルだ。
描かれている家、一軒一軒全て違うものだし、そこに住んでいる人の息遣いまでが伝わってくる・・・そんな情景なのだ。
そして、そこにひときわ大きい吹き出しがひとつ。
「新しい小説を書いてみようと思ってるんだ」

読者は当然ここで、このセリフの主は夏目漱石だとわかる。
新しい小説っていうのが「坊っちゃん」だということも察しがつくだろう。

たったこれだけのセリフだけで読者をこの作品世界に引きずり込んでしまうのだ。

次のページをめくってみよう。

1コマ目は猫だ。
おおっ!これぞまさしくあの「我輩は猫である」のモデルになった猫に違いない・・・と敏感な人は気づくだろう。
黒猫が白猫とじゃれあっている。
とある家の玄関部分。
まだ人物はでてこない。
漱石らしき人のセリフが続く。
「ぼくにはこの国がどこに行こうとしているのか
とんとわからない
新時代 新時代と浮かれる軽佻浮薄の輩を多少からかってみたくなった」

次のページで漸く縁側に座る男性の後姿が描かれる。
「西洋をただ真似ようたってそうはいかねえさ
だいいち真似たところでどうもなりゃしない」

足の爪を切っているその部分のアップ
「西洋ってとこは
あれはあれで結構薄情で独善好みなんだ」

そして・・・始まりから4ページ目で漸く男性が振り向きその顔のアップが描かれる。
「そのうち日本は張子の虎みたいになっちまうのが関の山さ」

・・・で、ペ-ジをめくって5ページ目。

漱石夏目金之助
このとき
満三十八歳十ヶ月

の文字が書かれているのだ。

ああ、やっぱり漱石だったんだ。へえ?38歳なんだ~!
などと読者は思いつつ、読み続ける。

漱石のセリフと、猫の動き、そして語り・・・。

どれも超一流の画力とセンスがなければ描けない。
猫や地面や屋根に映る木々の柔らかな影。
見ているだけでため息が出るくらい美しい。しかも、それらは読者を明治という世界に誘うためのものでもあるのだ。

たったこれだけの導入部分で、
「『坊っちゃん』を素材として選び、それがどのように発想され、構築されたかを虚構の土台として国家と個人の目的が急速に乖離しはじめた明治末年を、そして悩みつつも毅然たる明治人を描こうと試みた。」
・・・という原作者の<意図>を感じることが出来る。

人物の気持ちや性格などといったものは勿論、文章でも表現出来る。
しかし、画力の確かな者の手に掛かるとそれはダイレクトに読者の視覚に飛び込んできて一瞬のうちに感じ取ることが出来るのだ。
この作品の中の実に豊かな漱石の表情を見て欲しい。
悩む漱石。驚く漱石。考え込む漱石。。。
まるで目の前に漱石がいるかのような錯覚さえ覚えてしまう、実にリアルで実に魅力的な表情の数々。


ああ、またこの作品を再読してみたくなった・・・。


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