不登校で病院にぶち込まれた話

■はじめに

この記事では、私が不登校になった経緯と自律神経失調症と診断されて病院にぶち込まれてから復帰するまでのことをつらつらと書きました。

私は不登校を三回経験しています。
その内の一回目がこれです。
あと、書いてみたら思ったより長かったです。

お茶でもコーヒーでもビールでもすすりながら、気楽に読んでください。

■小学校までの私

今から何十年も前の話。
私は3,300gというまぁまぁなサイズでこの世に爆誕した。

すくすくと成長し、自我も芽生え、保育園に入るころだろうか。
いつの間にか人見知りする子になっていた。
特に大人と接するのが嫌だった記憶がある。

親戚や近所の人とすら顔を合わせるのも嫌だった。
多分、近所の人から「女の子みたいだねー」と言われるのが、幼いながらも男のプライドとかいうやつを傷つけられていたのかもしれない。

とか言いながらも、幼い頃のアルバムには、雑誌の付録でついていたセーラームーンなりきりセットとかをノリノリで着ている写真があるのだった。

それはともかく、とにかく人が、特に大人が苦手だった。

だから入園するときもかなりグズった記憶がある。
「知らない人が沢山いる場所」「一人で放り込まれる」のが恐怖だった。
上記に関しては割と経験がある人がいるのではないだろうか。

■恐ろしい担任教師

そんな私も、普通に公立の小学校に入学した。
小学校低学年では、授業中に先生に当てられただけで泣くような子だった。
その他には目立った点はなく、ちょっと(?)気弱な普通の少年だった。

当時通っていた小学校は、担任が奇数年ごとで入れ替わっていた。
いわゆるクラス替えというやつだ。
私が小学3年生になったとき、担任が女性の先生に変わった。

この先生がすんごい怖かった

今では考えられないことだが、何かやらかした生徒に対して、バインダーのような物の角でどついていた記憶がある。
もちろん、加減はしていただろうが。

さらに、元々美大出身らしく、図工の授業、特に絵に関してはめちゃくちゃ厳しかった

私はそんなヒステリックな先生に怯えながらも、別に素行に問題があるわけでもないし、宿題もちゃんとやり、忘れ物もしないので、特に怒られはしなかった。

その先生が担任になって数か月後ぐらいだろうか。
「物語を聞いて、それを自分で想像し絵を描く」という授業があった。
先生が本を読み聞かせ、その物語の中で印象に残った部分を、自分で想像して絵を描くのだ。

「たくさんの鳥たちが楽しそうにダンスをしたりキスをしたりしている」

物語の中で、そんな描写があったと記憶している。
私は画用紙に「無数の楽しそうな鳥たち」を描きまくった。

これがいけなかった。

私はラクガキを描くのは好きだったが、筆で色を塗るのがド級に下手くそだった。
それだけならまだいい。
なんと背景をローラーで塗らないといけないという事実が後に明かされた。
ローラーは、掃除で使う「コロコロ」ぐらいのサイズだったと記憶している。

私の画用紙には、ローラーが入る余地がないほどに細かい大量の鳥が舞っていた

「無理やん」

とはいえ、美術に関してはいつも以上に熱心な先生だ。
何とか仕上げないと怒られる・・・・
その時、私は最大のミスを犯してしまう。

「ローラーで何匹か塗りつぶしてもバレへんか...」

そう、背景と一緒に鳥を塗りつぶしたのだ。
しかも何を血迷ったのか、めちゃくちゃマットな黄土色で。

「何やってんだよォーーーーーッ!!」

まるでジョジョに出てくるような怒声が教室に響く。
そして頭には鈍痛

「早く水とタオルで拭けェーーーーッ!!」

私はグシュグシュに泣きながら拭いた。

画用紙も顔面も濡れていた。

この後どうなったのか、あんまり記憶がない
とりあえずなんか修正されて、教室の後ろに並べられたのは覚えている。

そして他のクラスとの見せ合いの時、

「この絵はちょっとやらかしちゃってねー」
\ワハハハハ..../

というやりとりが背後で聞こえたのだけは覚えている。

■不登校の始まり

先生が怖くて学校に行きたくなかった。
勉強が嫌でもいじめられているわけでもなく、ただ先生が怖かった。

次第に学校に行きたくないと思うようになる。
でも「行かないといけない」という気持ちもある。
しかし徐々に体が拒み始める。

「学校に行きたくない」

親にはっきりと伝えたわけじゃないが、行きたくないと言って駄々をこねた。

当時の私は、自分でも理由が良くわかっていなかったのだろう。
「なんとなく行きなくない」という思いしかなく、そしてそれを上手く説明する術を持ち合わせていなかった。

大体小学校4年生ぐらいだろうか。
この頃から学校へは完全に行かなくなった。

では家で何をしていたか。

漫画とゲームだ。

今みたいにパソコンやスマートフォンなんて便利なものはない。
ひたすらコロコロコミックスーパーファミコンの毎日だ。
相当無気力だったのかもしれない。

とはいえ、仲のいい友達とは遊んでいた気がする。
そこは本当に恵まれていたと思う。

たまに担任の先生が訪ねてきた。
正直来ないで欲しかった。
何度か訪問されていく中で、絶望の宣言が告げられる。

「5・6年生になっても面倒みるからね!」

私は愕然とした。

そして、そんな少年の裏では、大人が密かにやりとりを行っていた

■そして入院へ

始業式の日。
朝8時、集団登校の時間。

家の玄関から先に足が踏み出せなかった。

「頑張っていってこい!」

父親が声をかけてくる。

「自分が思っているより、案外こんなもんかってなるから大丈夫よ」

母親が後押ししてくる。

30分程上記のようなやりとりが続いた気がする。

でも、駄目だった。

完全に体が学校へ行くのを拒否してしまっていた。
10歳にもなる少年が家の玄関で号泣していた。
そして泣きつかれて家に入った直後、信じられない言葉をかけられる。

「病院に行って入院しよう」

意味が分からなかった。
でも、入院という言葉の意味は理解できた。

「嫌だ、行きたくない!」

そりゃそうだ。
誰だって入院したくない。

「もうすぐお医者さんが来るからね」

もうすでに入院が決定していた。
そう、両親は小児科医の先生と相談をしており、「始業式に出席できなかったら入院させましょう」という話になっていたのだった。
後から聞いた話によると、「親御さんは中々送り出せないと思うので、出席できなかったら迎えに行きます」と言われていたそうだ。

始業式の日、平日にいつも仕事にいっているはずの父親が家にいていつも優しい母親がゴリゴリに後押ししていたのは、そういうことだった。
もしかしたら、入院させなくても済むように応援していたのかもしれない。
でも私はその応援に応えられなかった。

「絶対に嫌だ!!」

私は家の2階に立てこもる作戦にでた。

が、完全に愚行である。

立てこもった場所は引き戸で、しかも簡単に外せる扉だったのだ。

また1時間後ぐらいだろうか、1階から話し声が聞こえた。
どうやら、お医者さんが到着して親と話をしているようだった。
ほどなくして、2階へ上がってくる足音が聞こえた。

必死に扉を抑えたが、小学生と大人だ。
腕力で勝てるわけがない。

ものの数秒で侵入され、当時の私の2倍ぐらいでかい白衣の男に掴まれ、連行された。

その時、壁に擦った左手の痛みは今も忘れていない。

■初めての入院生活

連れていかれた病院は、大きな総合病院だった。
その病院の6人部屋の角に私は居た。

「君は自律神経失調症という病気なんだ、ゆっくり治していこうね」

そんな言葉をかけられた気がするが、そんなことはどうでもよかった。
まず、知らない大人の男が5人もいる部屋という環境が辛かった。
というか、看護師さんも含め大人しかいない

ここが地獄か。

そう思った。
そして、親からも裏切られたと思っていた。
実際はそんなことないのだが。

さらに、病院では制限された生活が待っていた。
今までの自由なんていうものはない。

・テレビは半日1時間、1日2時間まで
・ゲームも同様
・お小遣いは月500円
・漫画は1日借りられるが、借りたら消灯までに返却すること
・毎日3~5分の縄跳び


もちろん外出もできない。
恐らく今ならスマートフォンも禁止されていただろう。

何より辛かったのは、上記をいちいちナースステーションの看護師さんにお願いしないといけないということだ。
そう、大人と会話しなければならない。

最初は拗ねに拗ねまくって我慢した。
ずっとベッドの上で腐りまくっていた。
とはいえ、小学生の我慢はそんなに続かない。

入院から1週間。
意を決して、爆発しそうな心臓を抑えながら、ナースステーションのドアを開けてこう言った。

「ゲームボーイ貸してください」

■入院から数か月後

やはり、人間は慣れるものである。
入院生活も徐々に慣れていき、同じ部屋の人とも会話できるようになっていた。

最初はすぐにへばって吐いていた縄跳びも、飛んだ回数の更新を狙うようになるぐらいまで体力がついた。

「テレビカード」や「ゲームボーイ」を借りるのも苦ではなくなっていた。
しまいには、自分のテレビの上にゾイドのプラモデルを飾ったりしていた。

時間が有り余っているので、自由帳をいっぱい買って漫画を描いた。
キャラクターや世界観は、当時のコロコロコミックに連載されていた「デュエルマスターズ」や「ベイブレード」などのモロパクリの漫画だった。

完全に黒歴史である。

出来上がった漫画は看護師さんに見せていた。
看護師さんは、字も汚い絵も下手くそパクリ漫画をちゃんと読んでくれて、しかも感想もくれた。
優しい世界だ。

入院患者さんは色々な人がいた。

・19時以降に少しでも物音を立てると怒鳴るおっさん
朝6時に全部のカーテンを開けだすおっさん
・寝すぎて点滴が逆流しているおっさん
・いびきがうるさすぎておっさんに注意されるおっさん
・夜のメインディッシュに1人だけハムが入ってなかったお兄さん

病院では、普通の小学生では体験できないようなことだらけだった。
洗濯も自分でした。
少し大人になった気がしていた。

もうこの頃になると、仲良くなったおじさんに「カップラーメン買って」とせがむぐらいのクソガキになっていた。
あの時のおじさん・お兄さん、どうもすみません。
そして買ってくれてありがとう。

あと、私と同じ病気で入院している子が何人かいた。
当時中学生のお兄さん、大学生のお兄さん、一つ年上の子、一つ年下の子。
おじさんが多い入院患者の中で、若い(幼い?)者同士気が合った。
特に中学生のお兄さん、大学生のお兄さんにはお世話になった。

中学生のお兄さんは、私に比べて割と自由に入院生活を送っていた。
テレビもゲームも漫画も、外出という名の脱走も自由だった。
そのお兄さんは、スーパーファミコンも持ち込んでいた。
そこでプレイさせてもらった「ドラゴンクエスト6」は、私がドラクエで一番好きな作品になった。

大学生のお兄さんはいつも髪の毛がモサモサだった。
そんなお兄さんは音楽プレイヤーをもっていて、色んな音楽を聞かせてもらった。

みんなの自由がうらやましかった。

そして、患者さんは完治したら入れ替わる。
一人、また一人と仲の良くなった人たちは退院していった。

■待ち受けていたもの

「そろそろ学校に通ってみましょうか」

主治医の先生からそう言われた。
入院に慣れてしまっていたが、本来の目的は学校に通うようになるためだ。

もちろん、学校には行きたくなかった。
しかし、担任の先生は熱心だった。
私を復帰させようと、色々動いてくれたのだろう。
クラス替えによる人の変化も、なるべく私の知っている人にしてくれていた。

ただ、今になってあえて穿った見方をすると、
「不登校の生徒を復帰させた功績」を作りたかったのかもしれない。
そんなことはないと信じたい。

「保健室登校でもいいから通ってみようよ」

そう言われて、私は渋々学校に通うことにした。

学校へは病院からの通学だった。
なので、普通よりも早起きして、さらに公共交通機関を使っていかなければならない。
しかし、入院で規則正しい生活を続けていた私にとっては苦ではなかった。

久しぶりの学校。

まず、校長室に連れていかれた。
そこで誰と何を話したのかは覚えていない。

この後に起こったことが最悪だったからだ。

休み時間のチャイムが鳴る。
校長室に取り残される私。

すると

クラスメイトが全員入ってきたのだ。

「久しぶりー!」
「元気してた?」
「皆で書いた寄せ書き!!」
「これ全員からのプレゼント!!!」

最っっっっ悪だった。

そういうのは求めていない。
何事もなく普通にしてほしかった。
もちろん中には友達もいたが、知らない人もいたと思う。

誰か知らないずっと休んでるやつに対する寄せ書きってなんだ?
絶対やらされているだろうこれ。

もうパニックだ。
もしかしたら、純粋な気持ちで書いてくれたのかもしれない。
でも、こういうのはいらなかった。

しれっと復帰して、今まで通り普通に接してほしかった
もちろん人によるかもしれない。
嬉しいと感じる人もいるかもしれない。

ただ私にとっては最悪以外の何物でもなかった。

休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。
クラスメイトが帰っていく。

私は一人、校長室で泣いた。

登校初日は地獄で終わった。

とはいえ、ここから少しずつ学校に通うようになる。
頑張れた理由はただ一つ。

家に帰りたいからだ。

■退院するまで

病院から学校に通うようになって数か月。
もうほとんど普通に学校に通えるようになっていた。

勉強も嫌いじゃないし、友達と居るのは面白い。
少しずつではあるが、自分が「普通」になっていっているような感覚があった。

「そろそろ家から通ってみましょうか」

ついにきた、家に帰れる。
それだけで嬉しかった。
頑張ってきたことが報われる感じがした。
しばらく、ベッドはそのままで家から通学するようになった。

小学5年生の秋頃だろうか。

私は退院した。

退院するとき、大学生のお兄さんと、仲良かった陽気なおじさんが見送りに来てくれた。
エレベーターが閉まるとき、小学生の私はWBC2009年のイチローのインタビューの去り際みたいなポーズで格好つけた。
二人とも同じポーズをして見送ってくれた。
ドアが閉まった後、少し泣いた。

退院してからも、たまに休みたいときは休んだ。
授業に出たくない時は、保健室で過ごした。

保健室には同じような子が何人か居た。
その中の一人に淡い恋心を抱いていたような気もする。
何度か一緒に遊んだが、別に何も進展しなかった。

小学6年生になる頃には、もうほとんど「普通」と呼べるものだった。
本当に嫌なことがあるときは休んだ。
それでも、頑張って学校に行き続けた。

そして私は、小学校を卒業した。

普通になれたと思った。

この後2回地獄をみることを、この時の私は知らない。

■終わりに

最後までご覧いただきありがとうございます。
最初に書いたように、この後2回不登校になります。
それぞれ原因は違いますが、小・中・高とそれぞれの期間で不登校になりました。

記事ではめちゃくちゃに書きましたが、両親も先生もクラスメイトも、全然恨んではいません。
今となってはいい思い出です。

今は、私自身が不登校になった時とは時代も違うし、専門家でもなんでもないので、どうこうしろという的確なアドバイスはできませんが「学校は行った方がいい」と思います。
ただし、嫌なこと・苦痛なことがあるなら話は別です。
でも、ただただ無気力で過ごすのではもったいないです。

恐らく、色んな人が色んなところで言っている言葉だと思いますが、何でもいいので「好きなことを見つける・やりたいことを見つける」ということ、そして「継続する」ということが大切だと思います。

ざっくり例えるなら、運動が好きならスポーツを、ものづくりが好きなら制作を、音楽が好きなら楽器を。

好きなことを続けた経験は決して無駄にはならないし、これからの自分を支えてくれます。

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